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Souls ain't like that [読書日記]

Souls ain’t like a great river and then when death comes the souls pouring over the waterfall and into the bottom land below. Souls ain’t like that but this war is asking for them to be. Do we got so many souls to be given? How can that be?
"Days without end" Sebastian Barry  chapter13

魂は、川のように流れ、死に際しては滝に落ち、地下の国に注がれいくようなもの、じゃない。人は、そういうものではないのに、今度の戦いは人にそうであるように強いている。これほどの人数の人々を俺たちはその川に投げ捨てたのか。どうやってそんなことが?


終わりなき日々。


ネイティブ・アメリカンとの戦いでは率いられるまま敵と戦い、闇と混乱の中とはいえ女子供も殺してきたトーマスですが、1861年に始まる南北戦争では、自分と同じような外見をし、同じ文化を持つ相手を敵とし、しかも威力の増した火力で殺しあうことに、多少の疑問を感じてしまいます。

It is not like running at Indians who are not your kind but it is running at a mirror of yourself. Those Johnny Rebs are Irish, English, and all the rest.


と、いうわけです。

戦い終えた戦場には、北軍側の新兵も太鼓叩きの少年も、無残な姿となり転がっています。彼らは仲間の遺体を埋葬する、それが死者への敬意を表するものだから。でもネイティブはそんなことしない。やがて狼が来て死肉を食べるから。埋めたとしても掘り起こして。彼らは埋葬し、神に祈る。でもキリストはこの国のことなど知りはしないだろう。なんと愚かな、我々は。


この辺りの筆致にぐいぐい惹きつけられて、夢中で読みました。それと同時に、疑問点も。

まず、トーマスよ。お祖母さんだかがネイティブのジョン・コールをこの世で一番のハンサムだと思っていて、スー族だか何かの部族の孤児を養女にし、この世で一番可愛い娘だと思っているのに、その同じ目でインディアンを同じ人間だとは見ていない?

この、まっすぐでない線引き。でもこういうところに気づくと、むしろそれがとても人間らしいことだと感じませんか。人は、往々にして漠然とした敵を憎み、目の前の存在には情をかけてしまうもの。例えそれが敵に属するものであっても。


それから戦争が人を変えるというところも考えさせられます。若いトーマスの以前の戦いでは入植者の生活を守るために、異種族の敵を排除するという大義があって。今度は反逆者と戦うという大義がある。けれども、今度の敵は自分と同じような外見の、同じようなルーツの人間達で、という。でも、そもそもトーマスはアイルランドの飢饉の時に家族を失い、ゴミ屑同然の扱いで新大陸にやってきたはず。貧しく飢えたアイルランド難民は、同じ人間として扱われなかった。こういうトーマス1人の背景を考えても、とても複雑です。
弾が当たれば死ぬだけの一兵卒。殺し殺され、生き残る度、今度の戦争は、と思う度に、生きる事によって変えられていっている自分を忘れて嘆いているものなのかもしれません。

人の命はそのようなものではなかったはずなのに。



それでも、後日談の形を取るトーマスの物語は

Young, and there would never be a change for that. 

Days without endで、それを思うとどんな惨めな場面も、どんな幸福な場面も、どこか胸が痛むものがあります。

(まだ50%しか読んでませんが)











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for that matter [読書日記]

カレン・アームストロングさん、ずっと以前に興味を持ち、著書を読んでみたいな、と思っていて、良いご縁があり、今回のチャレンジになったわけですが、やっぱり、そのときは面白いなと思って読んでいても、英語を頭の中で言語化していないので、本を閉じると、こんな事が書いてあったよ!と語れるほどの残るものはなく、曖昧な記憶しか残っていません。
わたしの頭では、そんなものかな。

でも、毎日、あー、面白かった!と思って読書を終えます。

今は第2章の"One God"を読み進めています。申命記やなんやらの叙述をもとに、プロフェットたちとユダヤ教の神の変化を読み解いているようです。

わたしはユダヤ教の贖いのレトリックがとても好きなので、というと角が立ちますが、本当にすごく興味があるので、書いてある事にワクワクしっぱなし。何か新しいヒントがあるんじゃないかと期待して。
こことか。

At a time when the cult of Yahweh might reasonably have been expected to perish, he became the means that enabled people to find hope in impossible circumstances.
Yahweh, therefore, had become the one and only God.
 A History of God :One God: 61p

ヤハウェの教団が如何にも滅ぶかも、という時に、彼(ヤハウェ)は、不可能と思われる状況の中で民に希望を見出させる原動力となった。
ヤハウェはそれ故に唯一無二の神となったのだった。


ここはアンダーラインを引くべきところのはず!と思って読んだのだけど、すらっと読めなかったし、日本語にしてみないと、もう一つよくわからなかった。わたしの上の訳は間違っているかもしれないけれど、意味は掴めると思う。この逆説、逆張りを、少数のエリートだけではなくある一定の人々を取り込んで信じさせ、存続させることが出来たということが、いくつもの逆境や困難にあってもユダヤ教とユダヤの民が現代まで生き残ってきた理由なのだと思うのです。

さて、章タイトルにもなっているように、ここでは啓典の民たちの神の一神教化、唯一の神となる成り立ちを説いていて、それまではマルドゥックとかバアルとか、いろんな神様がいた中で、ヤハウェの教団が教理的に先鋭化し、孤立してゆくところを辿っています。the one and only とことさら称揚しないといけないということは、他にたくさんライバルがいて、もともと唯一無二の、というわけではなかった、ということがよくわかる、楽しい部分ですよね。

ところで、one god と言われると、あれを思い出してしまいます。映画『カストラート』。
わたしはヘンデルの「わたしを泣かせて下さい」が好きなのでよく映画の歌唱シーンをYouTubeで視聴していたものですが、舞台の上でファルネッリが歌い終わった後、感動して沸き返った聴衆が、

One God, One Falinelli!

と声を揃えて賞賛をおくるのです。

神は1人、ファリネッリも1人!

とね。
この台詞の心情が日本人のわたしにはよくわからなかったのですが、今なら何か想像出来るような気がします。

The only oneであるという意味が。

ついでに言えば、この日記のタイトルは、今朝読んだDays without endから。

Thank God John Cole was my first friend in America and so in the army too and the last friend for that matter.

神よ、ジョン・コールはアメリカでできた初めての友達で、軍隊ででもそうで、最後の友達だった、さらに言えば


読書は楽しい。








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wanted compassion rather than sacrifice [読書日記]

昨日、あいまいな記憶で書いた箇所、読み返してみると少し違ったので、念のために本文を貼っておきます。

左のページの半分から下と、右のページの半分から上あたり。
わたしの厨二乃至金枝篇的嗜好が刺激されて面白かった部分です。



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出典、カレン・アームストロングさんのA History oh Godです。







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情けは人の為ならず [読書日記]

こんにちは、最近どうですか?
わたしはF F14のキャラをアウラからララフェルに戻し、再び新鮮な気持ちで、漁師稼業、ヌシ、オオヌシ釣りに挑戦しています。

読書のほうは、足掛け4年?英語の本を読むようになり、そろそろ電子じゃなくても読めるんではないか、と思い、ペーパーバックで、カレン・アームストロングさんの、A History of Godを読んでいるところです。

でもやっぱり、学生時代の不勉強がたたり、単語力がないので、わからない単語の連続です。辞書を片手に読むのも良いのですが、歳のせいか指先が不自由で、あと1ページがめくりきれなかったりして脳の血管が焼き切れそうな瞬間との闘いの連続になります。まだほんの最初のほう、2章に入ったところだし、初めて読むのでアームストロングさんの主張はあまり掴めておらず、実に多難な読書となっています。

でも、時々印象深い単語が出てきて楽しいです。例えばcovenant =契約ですが、確か先ごろ公開された映画エイリアンのタイトルがそんな名前でしたよね。コヴェナント村?号?映画を観た兄から話を聞いて、忘れましたけど、これって日本人には、はぁ、という単語でも、欧米人、啓典の民にはお馴染みの単語なのかな、と思いました。

よく言われるように、アブラハムやモーセは神と「契約」を結ぶのですが、その時代、その地方には豊かな信仰、宗教背景があり、ヤハウェは唯一の神ではありませんでした。モーセたちは彼を唯一の神と従い、その庇護を受けるのです。しかしやがて時代が降り、イスラエルが南北に別れていたころ、人々は古の神や犠牲を捧げる習慣を忘れることが出来ませんでした。そうしたイスラエルの民を罰する為に、神はアッシリアを遣わそうと決めます。
そのとき神はホロコーストではなくcompassion を望んでいるのだとprophets、預言者たちの口を通じて呼びかける、このcompassion=同情、憐れみが、この時新しく起こった宗教理念なのだとアームストロングさんは書いていました。(たぶん。手元にないので記憶です)

キリスト教が広まる時も、それは貧者へ手を差し伸べること、博愛、思いやりから始まったと読んだことがあります。

そうすると思い出されるのはThe Hobbit のビルボ・バギンズがゴラムにかけた情け=pityですね。

And he was miserable, alone, lost. A sudden understanding, a pity mixed with horror, welled up in Bilbo’s heart: a glimpse of endless unmarked days without light or hope of betterment, hard stone, cold fish, sneaking and whispering. All these thoughts passed in a flash of a second. He trembled.

The Hobbit より

The Lord of the Ringsでもこれに呼応する箇所があり、以前に日記に書いたのではないかと思います。
トールキンのあの壮大な物語の要に、このPityがあったことは興味深いことです。










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Renew thy beauty morn by morn [読書日記]

いま、ペースが落ちていますが、これ読んでます。





ハイライトをつけたり、ページの端を折り返しているところを少し。


まずはハクスレーのプロプター氏がピートに語って聞かせたことのピートの回想:

人間は、その性行動に於いてこそ、他に例なく専ら動物的でいるのだと思ったところで、人間は、依然として人間としてある段階にとどまっているのですよ。

これには少し補足を。プロプター氏は独自路線で面倒くさいソクラテスのような人物で、この物語の中で内省的な位置づけの登場人物はその話に耳を傾け心動かされずにはいられないという存在。彼が言うには人間は究極、善を成せない。人間としてある段階から昇華するか、あるいは動物であるときしか善は成就しないという。あれこれの考えから善を希求しても無駄なのだから、大きな希望を持って結局大悪を為すということにならぬように小悪をなしつつ満足して生きるのが良いのこと。

という意味は、依然として自意識の中に、つまり、依然として言葉の支配を受けているということーーそしてつまりは、言葉が在るところには、必然的に、記憶が、願望が、判断と想像が、在るということなのです。不可避的に、過去と未来が、現実と空想が、禍根と期待が、善と悪が、そして賞賛に値するものと恥ずべきものとが、美なるものと醜なるものとが、あるということになるのです。人間、男女にあっては、性行動という、粉う方なく極めて獣的な行為すら、こうした非動物的要因ーー言葉の存在によって、人間のありとあらゆる状況に注入される要因ーーの幾つかと、あるいは、全て結びついているのです。これは、正常な視覚なり、消化なりが在る、と言えるような意味で、”正常”と言える類の性行動は、人間には、一つとして無いということなのですよ。
250ページ


こういうプロプター氏の言説を読んでいると井筒俊彦を思い出してならない。




こうして禅は、すべての存在者から「本質」を消去し、そうすることによってすべての意識対象を無化し、全存在世界をカオス化してしまう。しかし、そこまでで禅はどろまりはしない。世界のカオス化は禅の存在体験の前半であるにすぎない。一旦カオス化しきった世界に、善はまた秩序を戻す、ただし、今度は前とは違った、まったく新しい形で。様々な事物がもう一度返ってくる。無化された花がまた花として蘇る。だが、また花としてといっても、花の「本質」を取り戻して、という意味ではない。あくまで無「本質」的に、である。だから新しく秩序づけれらたこの世界において、すべての事物は違いに区別されつつも、しかも「本質」的に固定されず、互いに透明である。「花」は「花」でありながら「鳥」に融入し、「鳥」は「鳥」でありながら「花」に融入する。まさに華厳哲学にいわゆる事事無礙法界の風光、
119ページ


こうなると、何度も引用するように、inxochitl incuicatl、『花と歌』も思い出すわけだ。


「繰り返し説かれるように、『花と歌』は『自己の心との対話』を習得した者の魂のなかにのみ存在する。これは一種の内奥の自己の神格化に結実し、『神格化された心』は『事物の神格化』に駆り立てられることになろう。こうしてあらゆる存在のなかに『花と歌』が注入されるのである」。
80ページ




次は、Goodbye to BerlinのSallyを。

" People have got to take me as I am," retorted Sally, grandly.
"Anger-nails and all?" I'd noticed Natalia's eyes returning to them again and again, in fascinated horror.
Sally laughed: "Today, I specially didn't paint mu toe-nails."
"Oh, rot, Sally! Do you really?"
"Yes, of course I do."
"But what on the earth's the point? I mean, nobody-" I corrected myself, "very few people can see them."
Sally gave me her most fatuous grin: "I know, darling...But it make me feel so marvelously sensual..."


そういえば、テニスン詩集買いました。岩波文庫の対訳のやつ。

Release me, and restore me to the ground;
Thou seest all thing, thou wilt see my grave;
Thou wilt renew thy beauty morn by morn;
I earth in earth forget these empty courts,
And thee returning on thy silver wheels.

Tithonusより








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Robert Guiscard [読書日記]





楽しく読書中です。
といっても、平日は眠すぎてほとんど読み進んでいないのですが。

曰く、8世紀末ごろからスカンディナヴィアに住む北方ゲルマン人がいわゆるヴァイキング(=ノルマン人)として南下し、フランス北部海岸地方に定着、その地をノルマン人の土地として、ノルマンディーが誕生しました。そして恩賞や出世からはみ出たノルマン人が立身を夢見て南イタリアに進出。やがてイタリアを支配する一大勢力となる、その中でも傑出した人物としてあげられるのが、ロベール・ギスカール

1046年、年の頃は30歳ほどの騎士が一人で南イタリアに現れる。ノルマンディーの地方豪族の一つオートヴィル家に連なる生まれだけど、供を連れ歩くほどの身分でもない、数多くいる兄弟の中の一人に過ぎなかった、それが、ロベール・ギスカール。

「ロベールは威圧的な性格の持ち主だったが、とにかく頭が良かった。戦うときには勇敢な戦士で、有力者の資産を狙う時はいつも巧妙極まりない。やろうと思ったことを邪魔する者は何者も容赦しなかった。背は高く、誰も及びもつかない。血色はよく金髪で、肩幅は広く、目は火花を散らさんばかりだった。全体としてがっしりしていると良いと思われるところはがっしりしていて、スリムだと良いと思われるところはスリムで、見事に均整のとれたからだをしていて気品があった。このように頭の先から足の先まで魅力にあふれているのである。それでいて、彼が唸り声をあげれば一万の人が逃げ出してしまうほどだったという。こんな人間だから、誰にも従おうとしない。身分は低くとも、これこそ実力者というものである。」(「第二章ロベール・ギスカール登場」 74ページ)


素敵である。
がっしりしていてスリム。肉体美を誇るハリウッド俳優さんのようではないか。
これを書いたのはビザンツの皇女で『アレクシオス伝』を残したアンナ・コムネナということなので、女性目線でヒーローの書き方を心得ている。ロベールは父の敵だったけれども。


イタリアで、ロベールはめきめきと頭角をあらわし、ぐんぐん出世して領地を広げ、カプアとカラブリアの領主となり、やがて、シチリアへと乗り出す。
その頃シチリアはサラセン人の支配下にあって、パレルモはイスラム支配の首都として最盛期には人口30万以上に達したらしい。うん?ちょっと待って、ハンザ都市の人口は、例えばリューベックは、ケルンについで北ドイツ最大の都市で、ハンザの領袖であっても1300年代に15,000、15世紀には25,000に近い数字、というから桁が違う。同時代の世界各地の人口の対比は興味深い。試しにこのウィキのページを見てみると、オランダの人口なんかぐんと少ないのに、ハンザはオランダ商人に追いやられたことになる。面白いね。

横道に逸れました。

シチリア攻略。
パレルモは海と山とに囲まれた要害の地で、水陸両用の攻撃体制が必要だった。
1064年に一度失敗して、1071年、今度は艦隊を用意してきた。港を封鎖して包囲し、1072年年明け早々開城。

とあるのだけど、待った。
艦隊はどこから用意してきたのだ。
陸の戦士がおいそれと海軍を運用できるかしら。明治初期の帝国軍、西郷従道公はどうだったかな。いやいや、大将はそれで良いかもしれないけれど、艦隊というからには、造船から、水軍の用兵、海戦の兵法などなど、一朝一夕ではいかんだろう。仮に、というかそうなのだけど彼らの祖先がヴァイキングでも、土地に定着してからも馬のみならず用船もずっと維持してきたのだろうか。

そんなことが気になって気になって、



を開いてみました。まず目についたのは、

ある中世史家の示唆するところでは、北西スペインのサンチアゴ・デ・コンポステラへの巡礼の道の近辺では、9世紀の大聖堂や修道院の記録によれば、馬産活動で賑わっていたという。(195ページ)

ノルマン人もこの時代、せっせとサンチアゴ・デ・コンポステラの巡礼に行ってたみたいなんですよね。馬を買う目的とかもあったのかな。

それから、

カロリング家の帝国が分裂すると、その後の西ヨーロッパにおいて最強の軍事力を誇ったのは、ノルマン人であった。彼らはバイキングの名で知られているが、10世紀初めには北西フランスにも進出し、その地は後にノルマンディー地方として知られるようになる。(同上)

このノルマン人こそ、騎馬隊の機動性をいかんなく発揮した軍事勢力であった。ノルマン軍の優秀さは、1066年南東イングランド沿岸におけるヘイスティングズの戦いでの勝利によって普及のものになった。この戦いで、イングランドのアングロ=サクソン族は、進行したノルマン人の軍勢によって敗北した。その様子はバイユー美術館に残るタペストリーの刺繍によく描かれている。(195ー196ページ)


とある。最後の引用はノルマン・コンクエストですね。

このバイユーのタペストリーにはヴァイキング船を思わせる船に乗るノルマン人の姿も見受けられる。じゃあ、やっぱり?


そこで本書に戻って続きを読み進めると、あっさり書いてありました。

バーリの人々の態度からわかるように、1060年代に入るまで、南のノルマン人たちが、戦いに船を利用した形跡はない。1060年代前半でも、せいぜいメッシな海峡を渡るのに使ったぐらいである。どうもノルマン人というと、ヴァイキングのイメージが強くて、誰でも龍頭船をあやつっていたかのように思いがちだが、そうではない。南イタリアにやってきたノルマン人は馬に乗った戦士、騎士である。彼らはむしろ海を苦手としていたのである。(「第4章古い支配の終焉」139ページ)

えーーーー

パレルモを陥とすのに、海軍が必要だということで、ロベールが先に征服したカラブリア地方出身者を中心として創設したんだって。

カラブリアはイタリアの長靴の先のあたりで、ウィキによると東ローマ帝国領だというので、ビザンツ、ギリシア人支配だったのだろう。当然、海運も盛んだったんだろうと予想できる。

ところで、ヴァイキングの末裔の海洋民、日本の水軍一族のような存在が、西欧にも脈々と受け継がれていたのかどうか。。。知りたい。





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RUBET ENSIS [読書日記]


コルテスは月を追う夢遊病者のようにゆっくりと歩いてきた。一歩歩くごとに兜の黒と白の羽根飾りが揺らいだ。磨いた鋼の胸甲をつけていたが、松明の火を受けて真っ赤に輝いていた。天幕と人々、いやグルムバッハ本人もその胸甲に映っており、





これは3月にインフルエンザに罹っていた時に読み始めたのですが、なんだか途中で読み進まずに本棚に埋もれさせていたのを、ハンザを読んでしまった後、思い出して手に取り、読了したものであります。


Rubet ensis sanguine hostium

剣は敵の血で赤し



rubet赤い、 ラテン語rubeōの三人称単数現在能動態直接法
I am red or ruddy.
I grow red, redden; color up, blush.


ensis剣。オリオン座イータ星の名前にもなっているみたいですね。


sanguinesanguisという名詞の奪格より。=blood


hostium敵、hostisという名詞の属格の複数形。

テノチティトランの阿鼻叫喚。敗走の後、露営地のテントから騒ぎを聞きつけて出てきたコルテスの片手に握られた剣に、炎の文字で書かれていたというのが上記の銘。乾坤一擲、復讐なるかというこの場面で悪魔的な描写に磨きがかかる。こんな風に、ペルッツの怪奇幻想小説は、小道具や舞台に凝っていて、セリフ回しも示唆的で面白く、読むと引き込まれるような感じ。

ともあれ、モンテスマの死を引き金に、テノチティトランの阿鼻叫喚。
(今、ウィキでリンクをはろうと思って、テノチティトランを調べたら、コルテスが彼の地を征服したのが1521年8月13日とあり、わたしが読了したのは昨夜、2017年の8月13日のことだから、ちょっとびっくりしました。)
非業の死。
必ず達成される呪いの言葉。
異母兄弟、ドイツとスペインの確執。
瘴気もたらすメソアメリカと、遠い、ドイツの荒涼とした冬の森。
新大陸の金銀財宝と旧世界の宗教戦争。
こういったものがまるで神話を描いた壁画のように渾然一体と絡み合い、不要なモティーフなど何もないとばかりに作用しあい、膨れ上がり、到達し、収斂するペルッツの物語の力量に毎回感心させられます。


「メルヒオル、このおれも老いと疲れで鈍感になれば、この声に負けてスペイン人や坊主どもと妥協したいと思いかねないのだ。もしそうなったら、お前が今夜のことを思い出させてくれよ。おれがこの憎しみを忘れんようにな。」


さあさあ、宿命や悪魔、死者の呪いに翻弄される登場人物たちの結末やいかに。
人にすすめるほどではないけれど、自分自身はついつい手にとってしまう、そういう魅力がペルッツ作品にはあります。

それに、







を読んだ記憶から、

コルテスがアステカの財宝をスペインの皇帝に送るのだと思い込んだグルムバッハが峠で一行を待ち伏せする場面は、フランシス・ドレイクがスペイン人達の銀を略奪したという話を思い起こさせるし、

実在の人物ではないけれど、グルムバッハがライン伯と呼ばれているからには、ライン宮中伯のことなのかな、と先日別件で調べたばっかりの単語が思い浮かんで楽しい。

ラインラントといえば、ハンザの大都市ケルン。神聖ローマ帝国で4番目に古い大学を持ち、ケルン大聖堂が有名で、なぜか本棚に見当たらないので引用できないけれどマクニールのヴェネツィアにも神学論争で出てきた気がするし、古くからイングランドと独自の交易ルートがあるハンザ同盟内の古株で、ハンザの衰退の一因でもある30年戦争の舞台でもありました。
スペインの非道。故郷から遠い新大陸の地で非業の死を遂げる哀れなドイツ人たち。ルターの主張に心を寄せるグルムバッハの叫びにはハッとさせられます。




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How can we ever be friends? [読書日記]

クリストファー・イシャーウッドのシングルマン。
ほぼ主人公ジョージの妄想と被害妄想に終始(←個人的かつ好意的表現です)する内容なんですが、印象的な短編作品でした。
トム・フォードの映画の残照の中で読んだからかもしれませんね。

映画との違いは、ジョージはパートナーであるジムの死に打撃を受けているけれど、自分の人生を終わらせようとは思っていないこと。むしろ逆に、生きている自分を実感して、謳歌しています。そしてジムに愛人がいて、愛人と旅行中に死ぬこと、犬はいないこと…。
同じなのは、マイノリティのこと、リベラルな風潮のこと、などを学生に語るときのジョージの中に潜む情熱。彼の主張を文章で読むと一段と時間の差を感じさせない普遍性が際立ちます。
それからカウチに座って、本を読む、あの美しい映画のシーン。
わたしはあのシーンとあの家があることでいっそう深く、シングルマンの映画が好きなのですが、イシャーウッドの描写は、ジョージが日々新たにする喪失感に胸をえぐられるような表現になっていて、鋭いです。



そしてまた、特に書いておきたいのが、凡庸なのか隠れた賢者なのかわからない、謎めいてどこか蠱惑的でもある学生ケニー・ポッターくんがジョージにこう言うところ。

'What's so phoney nowadays is all this familiarity. Pretending there isn't any difference between people - well, like you were saying about minorities, this morning. If you and I are no different , what do we have to give each other? How can we ever be friends?'

最近の風潮で、特に嘘っぽいなと思うのが、そういう誰でも友達みたいなところなんですよね。同じ人間なんだから違いなんかないってふうに装う、ほら、先生が今朝マイノリティについて言ってた。でも例えば先生とぼくという人間の間に違いがなければ、お互いにどんな影響を与えられるというんでしょう?そもそも、どうやって友達になれますか?


これは海辺のバーでの会話ですが、映画では生き生きと映し出された俳優さんの表情に注意を逸らされて、セリフはあまりよく覚えていませんでした。原作ではこういうことを言っていたのです。彼は本当に謎めいたキャラクターで、読者が得る印象は全てジョージの妄想でしかないのじゃないかな、と勘ぐりたくなるのですが、このセリフだけでも出色だなと思いましたし、ジョージの妄想によってしか成り立たないかもしれないとはいえ、全体を通して象徴的な存在でした。そういえば、別のところで、ジョージはこう言っていましたっけね。we're creatures of spirit. Our life is all in the mind. (とはいえ、現実の彼は、小説の世界が現実だとして、一人で残してきた初老の男性がその後死ぬのだから、後味悪いし、警察になんていうのだろう?とついそんなことを考えてしまいますけど。)


原作者であるイシャーウッドの言葉選びや表現方法、映画にしたトム・フォードの解釈など、あれこれ想像して比較するのも面白く、イシャーウッドの別の作品もぜひ読みたいと思って、さらばベルリンというのを電子とペーパーバックで購入しています。

ペーパーバックといえば、シングルマンのも買ったのですが、これにはトム・フォードの序文がついていて、そこに、トム・フォードがイシャーウッドの長年の熱烈なファンで、若い頃に作家と直接会ったことがあり、その時期待したほど相手にされなかったけど、そのせいでますますのめり込んだこと、などが書いてありました。わたしもそうなりつつあります。ジョージが授業で使っていたハックスレーの「夏幾度も巡り来て後に」を読み、映画シングルマンのブルーレイを買い、今すぐにではないけれど、この先もずっと心に留めておいて、時折思い出して意味を噛み締めたい、そういう類の作品でした。




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many a summer [読書日記]


先日、トム・フォードが監督を務めた映画、A Single Man(2009)を観まして。
わたしああいうお洒落な衣装や背景の映画大好きなので、楽しく鑑賞し、なんとなく心に残り、
いろいろ気になりはじめ、ついつい原作の小説にも手を出してしまいました。



まだ30%のところまでしか読み進んでいません。やっとこの物語の主人公ジョージが大学で授業を始めたところ。教室に入るもおしゃべりをやめない学生たちとの心理的攻防の末、おもむろにジョージは口を開くんです。

'After many a summer dies the swan.'
George rolls the words off his tongue with such hammy harmonics, such shameless relish, that this sounds like a parody of W.B. Yeats reciting.

「幾夏去りし後、その白鳥は死ぬ」
と、ジョージは語り出した。いかにもわざとらしく。いかにも芝居がかって。まるでウィリアム・バトラー・イェイツの暗唱の真似のように。
(わたしの意訳)


ジョージは文学の先生なのでしたっけね。この、
After many a summer dies the swan というは、1939年に発表されたイギリスの著作家オルダス・ハクスリーの小説のタイトル。ただし、アメリカではAfter many a summer dies the swan として出版されたけど、イギリス版ではAfter many a summerらしい。わたしが買った電子書籍(表紙がなかなか今ふうに良いね)も後者になってますね。

そしてもともとはアルフレッド・テニソンの詩、ティトノスの一節から採られたもの。

Tithonus  BY ALFRED, LORD TENNYSON

The woods decay, the woods decay and fall,
The vapours weep their burthen to the ground,
Man comes and tills the field and lies beneath,
And after many a summer dies the swan.
Me only cruel immortality
Consumes: I wither slowly in thine arms,
Here at the quiet limit of the world,
A white-hair'd shadow roaming like a dream
The ever-silent spaces of the East,
Far-folded mists, and gleaming halls of morn.

(以下略)



ジョージは、After many a summer dies the swan と語るとき、diesを強調して発音する。ハクスリーがテニソンのオリジナルの詩のAndを省略した埋め合わせのために、だそう。ふうん?

ちょっと探したけどテニソンの当該詩の邦訳が見当たらないので、調べたことを書いて置きますが、ティトノスは暁の女神エオスの夫で、女神に願いを訊かれた時に、不老を願わず不死をのみ求めたため、死なないけれど老いさらばえて最後はセミになったという伝説の人物で、その人のことを謳った詩ですね。
適当な訳を引っ張ってこれなかったので、いちおう私が訳してみましょう。


ティトノス

森は老い、森は老いて滅び、
暗鬱とした空気はその重荷を地に撒き、
人が来て、その地を耕しその地に眠り、
そして幾夏去りし後、その白鳥は死ぬ。
哀れな不死者であるわたしは
古ぶ:あなたの腕の中でゆっくりと枯れ、
この世の静寂の際であるこの地で、
夢のように彷徨う白頭の影ひとつ
静謐な東の地、
幾重にも包まれた霧、そして暁の輝ける館

(わたしの意訳、下の方の行、よく解りませんでしたー)


で、the swanってなんや、と思いませんでした?

調べたら

Aldous Huxley and the Search for Meaning: A Study of the Eleven Novels

という本を見つけました。
白鳥は長く生きると信じられていた為で、それはティトノスもそうで、ならばthe swanというのはティトノスを指しているのでしょうか。あれ?でもティトノスは不死だから、dieはしない。

なんかよくわかりません。。。難しいです。
岩波文庫から出ているテニソンの詩集には、ティトノスが入っているのでしょうか。
今度、買いにいかねばなりません。

というわけで、





も買ってありますが、全然そこまでたどり着きません。

……あれ?
おかしい。今年は南米文学を読む予定だったのに。










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It was just a chunk of clay. [読書日記]


6月の頭からいろいろあって、世間的には大したことないありふれた事象の連続ですが、私には物悲しい日々でした。仕事場にいる犬に敷いてやっている布団が汚いからといって勝手に捨てられたこと。祖母がとうとう旅立ったこと。父がとある見合い話を喜んで持ってきたこと。現実の世界は心底がっかりさせられることばかりで、私には本という逃避なしにはどうやって腐らずに生きていられるのか不思議です。

まあ、そういうわけで読書会で読んでいる課題図書を、のめり込むようにして読みました。タイトルが

HOUSEBOAT ON THE NILE

というもので、エジプト旅行か、ナイル殺人事件のパロとかがあるのかしら?と最初に想像したのですが、全くなく、不可解なタイトル…と気になっていました。それでGOOD READERのプレビューで外人さんがそれらしいこと書いてないかな、とおもい探してみると、ありました。

the nileとはナイル川のことですが、この発音とdenail(=拒否)という英単語が、「でないる」(っぽい)でよく似ていること、それでthe Nile is not a river in Egyptみたいな言い回しがあるそうです。
ここからはわたしの想像ですが、ハウスボートというと、そこでの暮らしがイメージされるから、拒否という川の上に浮かぶ舟(=家)、否定の流れを流れる人生、…つまり、岸辺なき流れ、ということ?笑 過大解釈でしたね。
ともかく、とても面白く読み、救われました。物語の中に、主人公の一人が密かに愛着を持っているロットワイラーの陶器の置物が出てきます。主人公の一人のお気に入りの映画Hondoの犬と、たぶんオリジナルの挿話にでてくる犬とか混じり合った、その人にとって重要な象徴的存在なんだろうと思います。わたしも犬の布団を勝手に捨てられたことで一晩中泣けるくらい犬に愛着を持っているので(だってそうでしょう?犬はそこで寝ていたんですよ?自分の匂いつけて、安心できる居場所だと思って。それを汚いから捨てるなんて犬に対して思いやりがなさすぎて言葉もありません)、犬に愛着を持っている人の話には弱いのです。読みながら、ジェフリー・フォードの白い果実三部作を思い出しました。

白い果実、記憶の書、緑のヴェール。これらをわたしは10年近く前に読みましたが、今でも最も評価する作品の一つです。途中から、ウッドという犬が出てきます。最初は全く打ち解けず、可愛くない犬でしたが、忠実さと愛情の象徴でした。主人公クレイと気の遠くなるような、過酷な旅をしたウッド。

それ以来クレイは怒るのをやめた。ただ、ウッドにもう一度会いたいという気持ちだけが残った。森で狩をしていると時折、ウッドの吠え声がはるかかなかから聞こえることがあった。初めてそれを聞いたときは、その源を探して5マイルも歩いたが、一生かかっても近くことはできないとわかっただけだった。(緑のヴェール 321ページ)













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