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it could be [読書日記]

When it's real people, not policy, it's different. It has to be. People can't hate as easily when they see you.

それが現実の人たちのことであった場合、主義とか信条じゃなくさ、話は違ってくるよ。そうであるべき。なんにせよ、目の前にいる人を憎むのは難しい。


***


ENJOY THE DANCE





ダンスとは何か。体の動き、体を動かしたい気持ち、情動、感情の波。小波、tide、血潮、原初の記憶。鳥もすなる踊りといふものを、人もしてみむとてするなり。
それにこの表紙はとても素敵。

私はもともとダンスにはあまり興味がなくて、それって倫理や価値観といった社会の束縛から個人を解放する表現方法のひとつなんでしょ?でも長い目で見ればささやかだし区別もつかないような極小点に過ぎない個人個人の感覚、かつ消えかつ結びて久しく止まりたる試しもない”自分”に拘泥し、それを表現して人に見せることに何の意味があるの?と思うので、今まで評価してこなかった。

ところが英語の歌詞や物語を読んでいるとdanceという動詞をよく目にするようになり、単語に含まれているレトリック上の用語法以上に、日本語でいう舞や踊りという人間の仕草以外の情景が含まれている気がしてならなくなった。それで、ダンスがテーマらしいM/Mを”研究目的で”読み始めたんだが、なんというか、ダンスは外人さんにとって根源的には人間の生き方、呼吸の仕方、「自分はこうです」という胸の張り方という意識があるんじゃないかな、と。それならそれで構わない、けっこうなことですよ。感銘を受けました。人は浄福を得る為に踊ることもあるでしょう。”生きている自分”が”生きている”こと自体への肯定、そういった意識、そういった欲求といいましょうか。。
でもね、そのうち、だんだん、別のことが気になりはじめたんです。

Dance with me という物語で、カソリックの母親が息子に問う、

「で、そのお相手の男の子はカソリックなの?」

可愛い息子の同性愛の相手よカソリック教徒であれかし。

驚きである。

しばらくして、こうもいう。

「カソリックであってもなくてもどうでもいい!その子が気に入った!」

うーん…、これはM/Mロマンスなので、殊に悲劇要素を入れたいのでもなければ概ねゲイに肯定的な世界なのだ。うん。愛は全てを克服する。


そして、Enjoy the dance

Tomas endured it without complaint because he knew plenty of Latino gay men whose parents never gave up on the right girl changing their minds about liking dick. His parents had tried that angle only for a few days, and afterward they were fully on board with Tomas finding a nice man to settle down with instead.

トマスは特別不平もなく母親の言葉を聞き流した。なぜなら同じラティーノのゲイの男性が、親から粘り強く矯正しようとされる話は十分に知っているからで、彼の両親は同じことを数回試した後で、代わりにトマスに似合いの男性を見つけることに完全同意してくれた。


トマスの母親は不法移民のメキシコ人で、神への信仰に篤い女性だ。シングルマザーで男運が悪く、酒とドラッグに溺れて子供の面倒を両親に押し付けてくる妹に対する不満をトマスがぶちまけるとき(読者もトマスに対する同情でいっぱい)、その言葉尻を捉えて、母は言う。「そんなことをいう時に神の名を使ってはいけない」
けど、お母さん。じゃあ、そもそもキリスト教は同性愛に関して原則的には否定的な教義を持っているはず。そこはスルー?
そう、人は、良きキリスト教徒でありつつ自然に反する罪とされる同性愛を受け入れることが同時にできる。

この取捨選択は、一体どうしたことだろう?
教義のここは受け入れるけど、ここは自分の状況に合わないから目を瞑る的な態度は、宗教の生き残りをかけた多様性への変化と受け取ることもできるし、生きる為に自分を肯定しバックアップする人間の柔軟性と見ることもできる。それが私にはとても興味深い。


まあ、これらはフィクションなのだけど、そもそもは少し前、オーランドの後かな、ネットで、ゲイのムスリムのインタビュー記事を読んだことがあって、記憶ではその彼は、ところによっては死罪にもなる同性愛といえどもこの世界は神が創ったものなのであって、神は同性愛者として自分をお創りになられたのだから自分はそのように受け入れられるべきである、というようなことを話していたと思う。(全然違ってたらごめんなさい)それで、とても感心したのだった。だって、本で読んだところじゃ、ムスリムは教義について個人的解釈をしてはいけないはずだから。


そこで、『無神論の歴史』
私は様々な興味の行き着く果てに信仰と人間の個人的な関わりがあるとみて、この本を長らく楽しんで読んできたのだった。
そしてこのほどやっと読了。





この本を読み始めた6月、
”All's well with the world”で抜き出した作者の緒言、

本書が語るのは、信仰を持たざる人々の歴史である。この言い方のもとに、自分の人生に介入する人格神の実在を認めようとしないすべての人々、つまり無神論者、汎神論者、懐疑論者、不可知論者、そしてさらには理神論者が含まれるが、そのカテゴリー間のニュアンスには無限な違いが認められる。彼らが全員集まれば、おそらくは人類の多数派を構成するだろう。


原理主義者、教条主義者でもない限り、現代に生きる多くの人が、無神論者、汎神論者、懐疑論者、不可知論者、理神論者にカテゴライズされるべきであろう。この本ではそういった考えの人々の歴史を詳らかにし、それが教会が言うような悪魔の所産でもなければ、反社会的な思惑でもないことを示してゆく。


かつてはキリスト教の厳密な枠から出たものが無神論と呼ばれた。 969p

無神論には固有の歴史がある。人間の誕生以来、無神論は二つの大きな世界の見方のひとつであった。その世界は超自然的なもののない世界、人間が独力で自分自身と、そして不動の法則に支配される自然と向き合う世界である。無神論者は神という考え方の背後に逃げ口上を感じとり、それを告発する。長い間追い払われた後で19世紀になって、無神論者は市民権を獲得し、そして神の死を宣言し、神を自分自身の世界体系へと取って替えられるとさえ信じた。974p

デュルケム以降、人類はイデオロギーという形で新しい神々を創りだし、それは20世紀には導き手として人間の役に立った。その結果は周知のものである。今度はこの新しい神々が死んだ。近代の人類は神のとてつもない消費者である。

神も復活も信じない若いキリスト教徒と、聖なるものについての感覚は保持している信仰を持たない若者とのあいだを支配しているのは矛盾であり、そのために人はそれを《ブリコラージュ》(既成のものを使って自分で作ること)、《寄せ集め仕事》といった考えのせいにする。まるで可能なすべての思想体系が体験され、使い古されてしまったかのように、千年紀が思想の恐るべき空白によって幕を閉じようとしている。964〜965p


それなら信仰とはなんだろう?自分で選び取ることが出来るもの、それは確かに多くの闘争の末に勝ち得た権利だけれども、最初から完璧でなかったものにどんな宗教的権威が残されているのだろうか。神とは真理ではないのか。そして神も復活も信じないのにキリスト教徒だなんて?それって単に社会道徳の習慣でしかないでは?


またそうだったとしても、信仰を持つ者と持たない者との違いも、やはり基本的なものではないだろうか。そうウンベルト・エーコは自問する。対立はむしろ信じる仕方と信じない仕方のあいだにあるのではないか。聖なるものについて自由な立場をとる信仰を持つ者と、それについてオープンな無神論者のあいだよりも、むしろ前者と原理主義者のあいだのほうにいっそうの違いがあるのではないだろうか。1996年にこのテーマについてカルロ・マリア・マルティーニ枢機卿とウンベルト・エーコの論争を報じたのはイタリアの『リベラル』誌だった。エーコはその論争をふり返って、こう語る。「宗教性というものには形式があり、したがってたとえ人格と摂理を持った神への信仰が欠けている場合においてさえ、聖性の意味、限界、問いかけ、期待、われわれを超えた何ものかとの交信にも形式があるのだ」。
一致が頓挫するのは倫理問題に関してである。マルティーニ枢機卿にとっても、またウンベルト・エーコにとっても、参照事項に供されたのは個々の人間の尊厳である。だが枢機卿にとっては、この尊厳はそれが神によって人間にもたらされたという理由にのみ基づく。人間の尊厳はそれ以外の別のものに基づく必要があるのではないか。この尊厳にはそれ自体何か尊敬に値する次元が備わっているのではないか。まさしくこの点にこそ、信仰を持つ者と持たない者のあいだのさまざまな対立の今日的な論点が存するのである。971p


人間は自己を肯定する生き物である、と私は思っている。肯定できずに死ぬ人も、そりゃいるけど、多くは自分を肯定しながら生きてゆかねばならない、それもけっこうたいへんな道なのだ。かつては宗教を信仰することで肯定されていた存在だが、宗教が社会の発展と科学の進歩を覆い尽くせなくなった時、人間は自分で自分に尊厳を与えることが必要になったし、そうした。またそういう人間が過去にもずっといたのだと、無神論の歴史が語る。
宗教は真理たりえなかったと、既存の宗教の多様性が教えてくれているじゃないか。
けれども信仰は、まだ生き残っている。人は何かを信じたい、頼みにしたいものなので、普遍的だといえる可能性があるのはこの部分なのだ。
人間にとって大事なのは、自分という存在を肯定すること。人間に尊厳を与えること。英語でいえば、Dignityだ。威厳、品位、気品、重々しさ。
今朝、ヤジディ教徒の女性がサハロフ賞を受賞したというニュースを見た。あれがヨーロッパ議会のシュルツ議長だったのだろうか、男の人がdigntyと言っているのを聞いた。「ナディアさんたちは恐怖に打ち勝って必死に生き延びた。この姿こそ勇気と威厳の象徴と言える」

住む土地を追われ、人間として扱われなかった時期があり、今は誰かを頼りにして生きなければならない身だとしても、その姿、ふるまいにはdigntyがあると、多くの人は認めずにはいられない。
ヨーロッパ的ヒューマニズムが常に正しいというのではない。
けれども結局は、何を信仰しようとも、マイノリティであっても、神を信じていてもいなくても、この場合人間には2種類あって、それは自分というものの尊厳、または人間の存在意義は何かの権威によって与えられるものだということを無条件に信じることが出来、それを受け入れる人と、そうではないはずだと足掻く人、主義や主張ではなく、ここにいる自分、目の前にいる人を受け入れずにはおられない人、自分というものの存在意義、または人間の尊厳は既存の権威が用いる承認ではないどこか別のところにその源泉があるのじゃないかと疑う人。
この両者は対立せずにはおれない、それは果てしのないことで、つまりはやっぱりそれは自分を肯定し、生きようとする人間のなせる業だからなのだ。尊厳とは、ひとつには、自分の生を主体的に生きることに付随するものだと思うから。



***

そして愛は、アンダーソン君のお母さんがいったように、時々尊厳を捨てることを強いる。むしろそれだからこそ愛というものなのだろう。ダンスはそれらのすべてを表すものなのだと言えるのかもしれない。とはいえ、私はやっぱり踊っている人を理解しない。











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Dance with me [読書日記]


TLで読書感想文のことが話題だが、おれの読書感想文はこんな感じ。



無神論の歴史

『第6部 確かさの終焉(20世紀)』は、

20世紀は歴史上確かさが座礁した世紀だと主張しても、誤りを犯す可能性はきわめて低いだろう。

という書き出しで始まる。

鳴り物入りの国民国家の確かさとともに始まり、この国民国家が塹壕の泥にまみれて姿を消すと、それに続いて足音を響かせたのは右翼のイデオロギーと人権主義の確かさであり、それはホロコーストと原爆の閃光によって溺れ死に、また人類の新たな夜明けを謳う共産主義の確かさは強制収容所と国営店の空っぽな商品棚のなかで身動きができなくなった。さらに自由な資本主義の確かさは失業者の群れで足踏みし、民主主義の確かさはスキャンダルの悪臭に窒息し、科学の自由は倫理問題に対決させられ、ヒューマニズムの確かさは人類の半数の貧困状態によって死に絶え、

etc.etc.



けれども、21世紀のわれわれは、その地続きの荒野が地雷原であり、その地平を否応無しに歩き続けながら、相変わらず信仰が問題であり、信仰のもとに平和ではなく武器を取り、相手を糾弾し、人生が奪われ、それでもなお、多くの人々が宗教を抱えて生きていることを知っている。19世紀までの間、神がいることを証明しようとして逆に人々の目に自己撞着を露わにしていた宗教(キリスト教乃至教会)は、神を信じないと声高に叫ばれるようになった時代においても、扉が開かれたものの尻込みする多くの善良な民衆の間で生き長らえることが出来た。

それは「信仰」という行動原理の確かさを証明しているといえるのではないの?

教会の堕落を糾弾する反聖職者主義においては一定の賛同を得るものの、普段の穏やかな生活の中では無神論の実践は民衆の心を長く掴んでおけないというのが現実。


そして、今度は無神論が反撃を受ける。

キリスト教徒はどんな場合でも平等をベースにして他人と会話することはない。なぜなら、自分だけが真理を手にしていると信じているからだ。できることはただ、自分が持っている真理、信仰の真理を他人がみつけられるように手助けすることだけなのだ。
879〜880ページ


無神論は非合理的であり、それは《小児病》であり、自力でものごとを正しく考えることが出来なかったとされる。それではなぜ知識人も含めて、自分は無神論者だというたくさんの者たちがいるのだろうか。クロード・トレモンタンによれば、彼らは目標を誤ったのだという。彼らは戯画化されたキリスト教を攻撃したのである。そうはいってもやっかいなのは、キリスト教がたくさんの戯画を自分から生み出してしまい、これまでそうしたものがあればの話だが、《正統な》キリスト教はどこに身を潜めているかと人は自問できるほどだということである。
889ページ


この、無神論者の立場の弱さは、次のような事情に共通している。


ライシテ(非宗教性、政治と宗教の分離)の原理は、それ自体において弱々しい根拠を内蔵しているのではないだろうか。
よくよく考えてみれば、それに対して肯定でもって答えなければならなかったように思われる。
ライシテ、それは寛容の原理の社会的諸関係における実践的適用である。したがって、信徒はその敵対者の信仰の自由を尊重し、いかなる強制という手段も敵対者に用いることがあってはならない。ところがわれわれの敵対者はなんのためらいもなしに、ライしてを根絶やしにしようと、権力や策略を用いる。そうしながら、彼らはその行いが自分たちの教義によってあらかじめ正当化されることを知っているのだ。か彼らによればライシテの精神、それは悪であり、悪を打ち砕くすべての方策はよしとされる。
われわれの弱点は、さらにまた別の理由から我々自身の原理に由来する。われわれ、ライシテを掲げるものにとって検討の精神は権利であるばかりでなく、義務である。たとえそれがわれわれの友人からのものであっても、われわれは指図を受けることはない。あるいは仮に受けることがあったとしても、われわれの原理がわれわれに課すのは、それを判断し、それを正当と判断した場合にのみそれを受け入れることである。それゆえに行動の一貫性ということはライシテを掲げる者にとって実現困難である。というのも、行動の一貫性のためにあらゆる事柄に関して前もってひとつひとつ検討し、それに対する態度を決めておかねばならないからである。
要するに、不寛容を実践することはたやすいことであり、自分の偏見に従い、理性や道徳を惑わすことなく、敵の力量に応じて自分の力を試してみようとする喜びを満足させれば、それですむ。それとは逆に寛容であることは、あらゆる予断の排除、自己自身の統制、理想の遵守を要求する。未開人であれば労することなく不寛容でありえよう。哲学者たる者、努めていかなる場合でも万人に対して寛容たらねばならない。原理がわれわれに優越しているがゆえに、われわれは自らと闘うことを余儀なくされるているのである。

・1950年代ー80年代の合理主義者の戦い 第18章 無神論と信仰 戦争から休戦へ? 875ページ 



”確かさ”は常にぐらついている。ぐらついていないと思えたのは、地球が動いていないと信じられた頃までのこと。



さて、しばらく前からdanceという概念に興味があって(ダンス自体ではない)、今、Dance With Me というタイトルのM/Mを読み進めている。

元フットボーラー(サッカーのことじゃないんだぜ!)と、元プロダンサーの話。

最初は反発し合っていたはずだけど、元プロダンサーの指導のもと、2人でタンゴを踊っている。

you're the frame. You're the stem to my flower.

「おまえは支えだ。僕という花を咲かせる幹なんだ。」


僕=元プロダンサーは、女性のパートを踊っているの。


I can't dance if you don't lead. Your job is to be strong and stable. Never forget you're the anchor.

「リードをしてもらわないと踊れない。おまえの仕事は力強く、安定を維持することだ。自分が支点であることを忘れるな。」


2人で踊る、タンゴの極意。

2人で天地を創造する。2人だけの世界を作る。

お能もそうだったと思うけど、ダンスはその間だけ世界を作る。

言葉も、そう。音楽もそう。

世界を再現し、顕現させようとする。

これは極めて原始的な宗教的な行為に根ざしている。

そして二人で踊るダンスはまさに、世界でただ二人だけのペアになろうとしているのだな。

神話に出てくるひと組の男女のように。




ただし、私は一人で閉じこもって言葉を綴るほうが好き。





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as an insult [読書日記]


insult は、侮辱

You don't use the c-word as an insult.

because there's nothing inherently unpleasant, threatening, or offensive about female genitalia.

inherently:本質的に
unpleasant:不愉快な
threatening:脅すような
offensive:侮辱的な

genitalia:生殖器



これはさき頃読んだ、For RealというM/M原書の中に書かれていたもの。
さて、c-wordとは何でしょう?





今朝、ニュースを見ていたらば、トルコでは伝統的に男尊女卑の価値観が強く、エルドアン大統領が言うには女性は働きに出るよりも家庭を守るべきで、社会全般として女性は親族や恋人の男性の支配下に置かれることに甘んじなれけばならず、さらにクーデター未遂事件以後、それ以前の宗教分離政策からよりイスラム的な社会への回帰が進む気配が濃厚で、そういった風潮に対して女性たちの一部が反対の声を上げているというようなレポートがありました。


これを聞くや、読んでいた新聞を丸めて投げ捨て立ち上がり口泡を飛ばして、イスラム教徒の男性は預言者の例をとるなら幼女婚じゃなくまず年上の未亡人のところに婿入りして世渡り教えてもらうようにすりゃもっと発展して西欧をぎゃふんと言わせることができんじゃね?と主張しはじめる良い子のみんなが多いと思われますが、落ち着いて落ち着いて。

結局、どんな理想的なことを言ったって、実社会では女性は力が弱く、劣っていて、(寝取られないように)守るべき存在とみなされる場合が多いことは事実であり、性的にはプライズであることには変わりありません。

それはつまり、私が考えるに、精子のコストが低い(無駄が多い)ことに起因しています。

ホモサピエンスの男性は

・子孫を残すためには戦って生き残り、少しでも受精させる可能性を多くさせるために身体的頑強さを身につけながら進化した
(逆も考えられる。戦う立場を選択させられたがために精子のコストが低まった)

一方女性は、

・卵子(数が限られている)と子宮(生殖可能期間が限定され、しかも妊娠すると約一年にわたって占有される)のコストが高いがために守られるべきものとなり、攻撃力が放棄された。


といった生物学的役割分担を選択しながら進化してきた結果だと言えます。

なので、時間はかかるけれども、精子の価値を上げ、子宮と卵子の価値を下げる努力を続ければ、男女平等にゆきつくのかもしれない、というのが、私の持論の一つ。(一斉に怒られそうなのでここだけのヒミツ。)

つまり、男性の筋力をスポイルして、女性が闘争に勝ち抜けるよう骨格を強めつつ、生殖に関しては、女性の専売特許をやめ、科学に委ねること。そうすれば、誰と誰の子かがはっきりするので子の母親を確保し所有しなければならないという男性の悩みは減るし、女性は婚期を焦ったり、子供を産まないからといって軽んじられたりすることもなくなるんじゃね?と思うわけです。

でもまあこれはほんとに非現実的で、こんなSFファンタジーあったら面白いかも?くらいな与太話だと聞き流して下さい。受精を司る機関が権力持つのは目に見えているので、権力闘争としても楽しそうじゃありませんか。私は同性間で子供が作れるというアグレッシブな設定のSFファンタジーM/Mロマンスでこの着想を得たのですが、何からでも勉強になるなあ、とつくづく感じます。


というわけで、幼稚性も露わに、深い考えもなく女性の生殖器をからめた罵倒語を使ってはいけません。それはほんらい嫌悪感を持つべき対象ではないからです。男性の生殖器もしかりです。










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I open our past like a fan. [読書日記]

I open our past like a fan. Angel, you used to call me, for I had been named for the Angel Gabriel.

さながら一枚の扇のように、私は私達の過去を解き開く。エンジェル、きみは私をそう呼んだっけ、私の名前が大天使ガブリエルに因んでつけられたものだから。


これは、Ciaran Carsonの"The Pen Friend"に出てくる一節。ここを読んだとき、


白扇さとあきしかなその昔君にみられし心のように


という与謝野晶子の短歌を、カーソンは知っていたのかな、それとも
このテーマは普遍性があり、あるいはまた、
もっと有名な本歌、文学的素材があって、カーソンも昌子もそれを元に言葉を綴ったのかしら、
と考えたものでした。


この短歌をネットで検索すると、英訳しているページがありました。


昌子/春の歌十首

白扇のさとあきしかなその昔君に見られしこころのやうに

the white fan
opening outward all at once
just like the way
you saw my heart
such a long time ago

(サイト名、主はごめんなさいわからなかったので、リンクを貼っておきました。)


文学には背景があり、書き手は10の知識を持ってそのうちの3だけを書くものだと私は思っていて、言葉として刻まれなかった物語の背景や作家の頭の中の展開を想像するのが、読書の楽しみだと考えています。


でも一方で、このopenの使い方はそれ以前にあった、

I open my veins in a manner of speaking to write to you.

の響きを受けていると思うんです。だから、私が与謝野晶子の短歌を偶然知っていたがための個人的な連想かもしれません。



さて。大天使ガブリエルの続きはこうです。


Gabriel, the messenger of God, sent by Him to Mary to proclaim the mystery of the Incarnation, is patron saint of the postal services, and of stamp collectors:

ガブリエル、神の御使であり、神により聖母マリアへ受胎告知のために遣わされ、郵便事業と切手蒐集家の守護天使でもある。

百合の花を持ってマリアの前に跪く大天使ガブリエルを、思い浮かべてもらえることでしょう。
カーソンの特徴のひとつに入れ子式?数珠繋ぎ?なんといったら良いんでしょう、あるキイワードを軸に展開していく連想ゲームがあり、この物語も書き手の一人称で、昔別れた恋人から送られてくる謎めいたハガキを主軸に、万年筆のこと、切手のこと、香水のこと、irisのこと、それからIRAのこと、などなど様々に横道にそれながら進みます。もしかしてラブロマンスだったのかもしれない、と思ったのは、結末を読んでからのことでした。(厳密にはラブロマンスとは言えないだろうけど。)
テンポ良い展開を好む読者には、本筋に関係ないことが延々と続くカーソンの語りはちょっと理解できないかもしれません。でも私は”豆知識”みたいなのも好物だし、立ち止まっていちいち考えたい性格なので、カーソンの物語りが大好き。


今読み始めている"Exchange Place"も説明を読むと、スリラーのようなのですが、まだ読み始めてすぐのところだし、いつものように、一人称の主人公のクローズアップした視線から物語が始まっているから私はただ以前に読んだThe Pen Friendを思い出して、ワクワクしているところです。色んな言葉を書き溜めているノートのうちの一冊(MUJIの罫線入りのノートです!)が見つからなくて探していること、屋根裏にあるかもと思い立って別の手稿を見つけたこと、などがカーソン独特の文体で書かれてあり、

Here, for example, was a passage I recognized as having been lifted from the work of the French philosopher Henri Bergson: ‘There is no perception which is not permeated with memories. With the immediate and present data of our senses we mingle a thousand details out of our past experience. In most cases these memories supplant our actual perceptions, of which we then retain only a few hints, thus using them as signs that recall to us former images. The convenience and the rapidity of perception is bought at this price; but hence also springs every kind of illusion.’

ベルグソン!
(アンリ・ベルグソン。昔、稲垣足穂を読みふけっていたときに、タルホがよくベルグソンのことを書いていたことを思い出しました。)


今朝ここを読んだときは、ちょっと意味が捉えがたくって、和訳したら面白いだろうと思いこの日記を書こうと思ったのでした。でもなんだか、今は腰が引けています。烏滸がましいよね。ベルグソンだよ。

でも頑張ってみましょう。


ほら、例えば、これなんか、フランスの哲学者アンリ・ベルグソンから抜き出したと思われる引用:記憶が染み込んでいない知覚はない。我々は目下の、そして現時点での感覚の情報と、過去に経験した千のディテールを混濁させる。多くの場合、記憶は現実認識に取って代わる。人は知覚にわずかなヒントを持たせ、そうして以前のイメージを呼び起こすサインとして用いられるのだ。知覚の利便性と迅速性はこうして獲得される。しかしそれゆえにまた、色んな種類の幻覚を噴出するのである。


of whichが難しい。。。



でも、ね?

we mingle a thousand details out of our past experience.


白い扇が見えましたか?







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preparation [読書日記]




‘He took out his watch and looked at it. He rested for one minute as timed on his watch. He opened the briefcase and took out a passport and a pair of spectacles. He put the spectacles on and looked at his passport, and realised he was the man in the picture. A gunshot rang out.’



Part thriller, part spy novel, Exchange Place is set between Belfast and Paris and tracks the individual movements of two men, John Kilfeather and John Kilpatrick, who are trying to solve a mystery concerning a lost friend, a missing notebook and a gun.



But this is no ordinary mystery and the usual rules don’t apply. Appearances are deceptive; identities dissolve, become slippery; and it’s easy to lose track of who you are in the winding streets and passageways of the city. As the paths of Kilpatrick and Kilfeather slowly and inexorably converge, it is only the subterranean Memory Palace that can open the way to the truth. A brilliant psychological thriller that confirms Carson as one of our most talented Irish writers.



If you enjoyed Exchange Place, you might enjoy The Pen Friend, also by Ciaran Carson




So I enjoy ExchangePlace.








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