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The sugar-twist of his cruelty [読書日記]

今、M/M原書読書会でFor Real という小説を読んでいるのですが、37歳と19歳の年の差恋愛が進行しています。

おれそんな字面まったく興味なくて、若者の葛藤や成長、とか、人生半ばの閉塞感や自分探し、みたいなストーリーには辟易、どちらかといえば大嫌いで、人間の弱い部分を肯定して開き直りたい人には1ミリも付き合ってられないというタイプの人間ですし、性嗜好としてのBDSMとか面倒くさい人たちの軽佻浮薄な趣味としか思ってなかった(正直すぎましたごめんなさい)のだけど、いったいどういうマジックむしろミラクルなのか、

夢中で読んでます。


これはもう絶対邦訳されたらいいし、できたら漫画化して遍く日本の腐女子のみなさんにお届けしたら良いと思って震えながら読んでいるのですけど、ふと、これ、日本語で読んだらこれほど夢中になっただろうか?と考えました。

たぶん、斜め読んで、これほどのめり込んでない。私、一般的な小説の日本語はそんなに頭に入れて読まないので。(←ダメな部分)

英語は視覚情報で処理できない。だから自分の経験や知識を総動員しながら頭の中に単語の連なりを取り込んでいって理解しようとする、つまり、英語は、読んでいる時の自分の中への埋没度が深いと言えるかもしれません。

それはおのずと物語の世界の何かと、自分の世界の何かをリンクさせることにもなって、より、経験的な読書となるのだと思います。

今この本で美味しいのはPoetryとDanceの概念、ホグワーツのディナーと香水、それからダンケルクに従軍したお祖父(曽祖父)ちゃん。あと、Team LMP (レモン好きなので)ですね。まだ増えるかもしれませんし、他にももっとたくさんあるけどここに書くことは控えているかもしれません。


まあそんなわけで、ここまで物語のなんの説明もしていませんが、トビーの無慈悲なシュガーツイスト!いや砂糖まみれの残酷さが可愛い過ぎるやろ!!と叫ばずにはいられないので書きました。





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warning! warning! [読書日記]



女性の皆さんはどうぞ穏やかに読んでください、昨日の「無神論の歴史」:

自由思想は、数のうえでは会員の92%がそうだったのように、男性現象であり、大抵女性にはっきりと敵意を示してさえいた。女性は、民法の精神においても、未成年者、劣った存在、宗教思想伝播の元凶とみなされていた。第二帝政末期、アンドレ・ルフェーヴルは『民主主義論』で、「女性が人に操られてきたのであれば、それは女性の本性がそう求めていたからである。女性の歴史は女性であることの所産であり〔…〕、宗教が拡大することに責任を負っている」。ベルギーの自由思想家、ナポレオン・ナヴェは、「女性の脳の量が少ないこと、大脳回が未発達であること、そして女性はセンチメンタリズム」を根拠として、女性の生来の劣勢を主張した。弱々しく、合理性を欠いた宗教的な精神の持ち主、女性に向けられた警戒の念は、教会側でも、戦闘的な無神論者側でもまったく同じだった。もっとも、その理由はさまざまだった。信じやすく、宗教的なセンチメンタリズムというのが無神論者側の理由であれば、官能的な情熱が精神に及ぼす支配力が教会側の理由だった。女性は、ベッド、台所、教会にしか居場所がなかった。

第V部 神の死の世紀(19世紀) 750頁


OK?

私も穏やかタイプの面倒くさがり屋さんなので、女性であり女性の権利には敏感であるといっても、上記のような、無神論の歴史を述べる記述に腹を立てその一部分を取り出していちいち反論したいわけではないのだけど、女性についての記述が、サイードのオリエンタリスムに出てくる表現と似ていることには、少し立ち止まって考えずにはいられません。

「未成年者」「劣った存在」「センチメンタリズム」「弱々しく」「合理性を欠いた宗教的な精神の持ち主」などなど、これらは、サイードがオリエンタリスムとして表現されるところの東洋の人々のステレオタイプでもあったはず。

度々になるけども、「オリエンタリスム」を読んで私が思ったのは、西洋人が東洋人に対してそういったレッテル貼りをすることへの異議申し立てのみが大義であるのではなくて、東洋人同士が保身や慢心のために陥るオリエンタリスムをなくし、東洋として西洋を凌駕すべきであり、そうできると信じられることである、ということです。

なので(これは過去の遺物であると思いますが)、女性をそのようなものとみなすことには反対しなければなりません。男性に対しても、女性自身においても。

女性が男性心理を理解しがたいように、逆もしかり。けれども、男性側からの女性に対する認識や表現に、「別にそうじゃないけど、反対したら面倒だからやめておこう」というような態度が今までの社会を作ってきたのだと考えます。

男性には男性原理が正しいように、女性には女性原理が真であり、両者に優劣がないことが男女平等な社会ではありませんか?そのためには意見の相違が明らかになることと歩み寄りが必要で、女性は男性に「そうじゃなくて、自分はこうです」ということをシンプルに表明する義務があると思っています。別に受け身の性ではないということを証明するために、痴漢や暴漢にあったら「ぶっころす!」という、多少気の短いところを維持する努力さえ必要であると思っています。


まそんなワケで、私は仕事の時や初対面の人以外は、たいてい、自分の意見をぺらっと喋ってしまい、しかも議論を充実させるために反対意見を言うのが良かろうという意識がつい働いてしまうので、「でも××ということも考えられるんじゃない?」と、相手に容易に同調しないので、それでいつも友達が少ないのかと思ったりするのですけど…いやいや、違うかもしれないけど、そうじゃないと別の性格に起因することになるので、やっぱり、、、うん、まあ、別に友達なんか少なくて構わないんですけど、みなさん!「え、違うよ」と思うことには面倒臭がらずに「そうじゃないよ」と言いましょう!ね!と、思った次第です。







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Sans-culotte [読書日記]

盲目的な力が運命を支配し、罪人も有徳の士も偶然に脅かされると言い、また人間の魂は墓の入り口で消え去るわずかな息にすぎないと人に説得することに、君はどんな利点があると言うのか。人間の虚無という観念が、人間の不死の観念以上に純粋で高尚な感情を人間に吹き込むと言うのか。少なくともわたしには、どうしたら自然があらゆる現実よりも有用な作り話を人間に持ち出させたのか考えもつかないし、神の存在と魂の不死が夢でしかなかったとしても、それはやはり人間精神が考え出したものすべてのなかでもっとも美しいものなのだ。


恐怖政治で有名なロベスピエールは、無神論では社会を統制できないと考えていたようです。

伝統的にはキリスト教社会である18世紀末のフランスにおいて、
無神論者で、人間は死んだら終わりと主張することに、どんな利点があると言うのか。
「虚無」という観念は、人間は不死であるという観念以上に高尚な感情を人間の中に植え付けるだろうか。
少なくともロベスピエールには、何もない状態から自然がどうやってキリスト教というシステムを人間の思考の中に創出させたのか分からないし、
神の存在と魂の不死が夢でしかなかったとしても、それはやはり、人間精神が考え出したものの中でもっとも美しいものだ、という。

人が良い行いをするのは、悪い行いに懲罰があり、良い行いに報酬があるからだ。

それにしても”不死”という観念は、仏教の”寂滅”という観念よりも人間に高尚な感情を植え付けただろうか?そんなことないでしょう。仏教徒は反対に、涅槃に赴く為に善行を積むのだ。うーん、でもまあ、いろんなことを考えると、よくわかりませんね。そうかもしれないし、そうじゃないとも思う。
でも結局はどちらにしても生き方へのエサに過ぎないのだ、といえるかもしれません。


社会と一口に言いますが、社会を創り出し、維持するというシステムの現代性を改めて考えてみたいと思わされますね。

世界の紛争地域は災いをどうやって克服し、いかに社会を維持するのでしょうか。人間の善性を信じる?それとも権力や利害によって?

良く生き、良い社会を作る方法というのはまだ確立されていないのです。


無神論の歴史を読んでいて、サン・キュロットという言葉が出てきて、なんやそれと思い、分からないまま読んでいましたが、今ウィキで見ると、「半ズボンを穿かない人」ということなんだそうです。
当時の貴族の服装はキュロット(半ズボン)だったので、貴族じゃない人、それも参政権も持たない貧困層を指す言葉。

へ〜〜。

私は世界史の基本的な知識を持っていないので、いろいろ勉強になります。











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I am glass for him [読書日記]

Take me to you, imprison me, for I,
Except you enthrall me, never shall be free,
Nor ever chaste, except you ravish me.
--John Donne

私をあなたのものにして、閉じ込めて下さい、なぜなら
あなたが私を虜にするのでないのなら、私は決して自由にならないでしょうから、
あるいは貞潔でさえないのです、あなたが奪ってくれないのなら。


これはイギリスのジョン・ダンという詩人の詩。今読んでいるFor RealというBDSMのM/Mのページを捲ったところに出てきます。(自分訳なので間違っているかもね!)

情熱的な詩です。

こんな詩を作るジョン・ダンってどんな人?とウィキを読むと、


ジョン・ダンはまったく似たところのない2つの概念を1つに結合させる拡大したメタファー、いわゆる「形而上的奇想(Metaphysical conceit)」の達人と考えられている。


と書いてありました。

めた・ふあー!


プルースト以来、この暗喩ということは私のセンサーにキャッチされます。
プルーストを読んで以来、私は暗喩や直喩といった表現に敏感なのです。(いつもじゃないけど)
ちゃんと学校で習ったわけじゃないので間違っているかもしれないけど、私の理解では、英語ではasやlikeを使うと直喩。
I'm your dancing bear は、暗喩。

じゃあ、

Beneath his hands, my skin is so light and tight I half imagine I'm transparent. I'm glass for him, all the way to my blood-red, shinning heart.
("For Real" chapter4本文より)

これは?


take1
彼の手の下で、私の肌はあまりにも軽く(明るく)、きつく、私は私が透明になったと半分想像する。私は彼の故に全ての面において、私の赤い血、輝く心臓に至るまで、ガラス質のものとなる。


take2
その手に触れられ、私の肌は光のように実態を失い、緊張を孕み、自分が透明になったのではないかと半ば想像する。彼故に、流れる血から輝く心臓から全て、私はガラスとなるのだ。


う〜〜ん、lightという形容詞は明るいと軽いという意味があるし、glassも名詞じゃなくて形容詞として使われているのだと思うので、ガラス製の、とかガラス質の、というのが本来なのだろうけど、日本語にするのは難しい。名詞じゃないから暗喩ではないのだけど、日本語にしようとすると比喩的表現になりますね。

それにこれはトビーくんという齢19歳の一人称の語りで、”私”じゃなくて、”俺”とかであるべきで、もっと若者らしい言い回しにしないといけないし、なおかつ、この子、韻をふむとか感覚が詩的でもあったりするから、もうめちゃくちゃでいいんじゃない?(トビーくんの魂の在り様は詩人のあまりどぎつく、両義的なのです。)


take3
あいつが触るとビリビリした感じになって、半分透明人間になったみたいで、血とか心臓とかもうやゔぁいガラス。


(;´Д`A




ちなみに自動翻訳使ったら、

私は私の血に至るまで、彼のガラスの心を照らします。

ってなって、…なるほど、と思った。












ジョン・ダン=
まったく似たところのない2つの概念を1つに結合させる拡大したメタファー、いわゆる「形而上的奇想(Metaphysical conceit)」の達人=
トビーくん

それはBDSMの概念にもつながるのじゃないでしょか?


ジョン・ダンの詩は古典的な形式からより個人的な詩の形式へ方向転換している。ダンの詩の韻律も特徴的で、日常会話にきわめて近い、耳障りなリズムで構築されている(そのことがより古典的な資質を持ったベン・ジョンソンに「アクセントをキープしないことでダンは絞首刑に値する」と言わしめた)。 ダンの後継者たちはダンの作品をアンビバレンスと見なす傾向にあったが、一方で新古典主義の詩人たちはダンの奇想をメタファーの誤用と見なした。ウィキより

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Not be slaves again [読書日記]


無神論の歴史、第14章 「革命期の非キリスト教化運動 民衆的無神論の出現」

革命とは1789年バスティーユ襲撃に始まるフランス革命のこと。
この時、非キリスト教化で聖職者は多くが離職したし、また多くの元聖職者が熱心な無神論者となり、熱心な非キリスト教化運動の担い手になったと書いてある。

また、

軍隊の新兵募集は、極端な場合、貧窮者、日雇い農民といった下層民、商人、職人といった小ブルジョワのあいだで行われたが、これはもっともキリスト教から離れた階層に対応していた。
695ページ


ところでフランスのライシテが揺らいでいるようにも報道される昨今だけど、フランス人はフランス人の血を流して政教分離を果たしてきた歴史を鑑み、そのように宗教と闘ったことのない人間が軽々に口を出すべきではないと思うというのがわたしの感想。感じることはいろいろあるけど、宗教的感情もしくは宗教への感情はわからないから。


さて、前置きはそんなところで本題はこれを読んでいてまたしても、ヤコブのことを思い出してしまったこと。(しつこい)

結局、ヤコブはなんのメタファーだったのかな、とあれこれ考えてしまった。

Say rather you love the meat that loves the salt.

とフェリスが言ったことを思い出すと、私の記憶の中でなぜかいつのまにかフェリスがsaltになっていたのだけど(ヤコブがmeat)、むしろヤコブがsaltだよね、と思いました。

また、as meat loves salt というけれど、実際には肉は塩を愛しておらず、必要ともしてはいなくて、それを必要としているのは人間で、塩の味の付いた肉を愛しているのは人間だということ。

bad angelでありdancing bearであったヤコブは、危険で魅力的な引力そのもの。

生きていくのに必要なものではないけれど、それなしで済ますには味気なく、あると追いかけずにはいられない情熱的な何か。

でも人間の体は適度な塩分を必要とするから、やっぱり人は塩漬け肉を愛するものなのだ。

















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よいこの「為になる無神論の歴史」 [読書日記]

春からお邪魔しているM/Mの読書会で、次はSMBDをテーマにするそうです。間違えました。BDSMです。ボンデージ、ディプシリン、サディズムとマゾヒズムの頭文字をとったものです。

わたし、若い頃に、たぶん、高校生くらいのとき、当時は澁澤龍彦が流行っていたので、








を読みましたが、当時は意味がわからず(描いてあることはわかるけど、どう評価すべきなのかわからないという意味で)(でも今読めばけっこう評価できると思う)、それっきり、SM的なものに全く興味を持ってこなかったのですけど文学作品を読んでいればそれなりにそういった概念は出てきますから、まったく未知というわけでもありません。

でもロマンスでSM、というのは意味がわからず(意味はわかるけど全く評価しないという意味で)、かつ、近頃知ったことによれば海外のロマンスではBDSMがけっこう人気という。これは眉をひそめる現象であります。


さて、そんなところへ、昨夜、みんな大好き「無神論の歴史」を繙いておりますと、サディズムの名前の由来になった人物、サド侯爵が書いたとされる物語に出てくると思われる一節が、本文に引用されて登場しました。しめしめ、タイムリーです。


残忍さは、自然の懐にある。我々は誰もが、何がしかの残忍さを背負って生まれてくる。それは教育だけが正せるものだが、教育は自然には存在しない。残忍さは、文明によって退廃させられる前の人間のエネルギーにほかならない。(ジュリエットの物語より?)
第13章 不信仰の18世紀 658頁


この人の言論と、現代で愛好されている性的嗜好としてのサディズムはちょっと違うとわたしは思っています。

本によると、サドは唯物主義の無神論者でペシミスト。自然の善性とそこから汲み取るべき人間の善性を否定し、自然は残忍なものであり、その論理が宇宙を支配しているのであるから、本来的に人間は強きが弱きを虐げる力関係の中に従属して生きるのが自然で理に適っているのだ、と言うことなのだと思います。弱肉強食の世界であり、他者への恩愛はありません。


つまり、私の持論では、世間のSMクラブにはマゾヒストとそれに奉仕するマゾヒストしかおらず、真のサディストは現代社会では能力を発揮することができず、実行を禁じられています。だって、サディストは、他人の快不快や生命の存続を慮ることなく自分の快楽のためだけに相手を痛めつけることを是とするのですから。


そういうわけで、BDSMというけれど、そこにあるのはBDと、あるとしたらMであって(でもDとMは同じ要素なのでは?)、SMという組み合わせは性的に消費することができないので、それは世間の聞こえを刺激的なものする付け足しに過ぎず、ほんとうはBDが真髄なのである、というのが今の所の私の意見です。まあ、もし、本当にSがあるとしてもそれは一般的にロマンスとして消費できない作品になるのではないでしょーか。



どうでしょう?




さらにまた、外人さんはなぜそんなに、支配と被支配というロールプレイが好きなのだろう?と不思議に思います。普段あんなに権利と自由を主張しているのに。(日本もですか?)

これは純粋に文化人類学的見地から非常に興味深い事例です。

なので読むの、ちょー楽しみ!!(^ν^)



















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There is God, or not. [読書日記]

無神論の歴史下巻

ヴォルテールと「不信仰者同士の内戦」
神への信仰は政治的に必要だ。私は無神論者の国王は欲しくない、とヴォルテールは言う。無神論者は私を殺せるだろうし、またもし私が国王なら無神論者の廷臣など欲しくはない、私に毒を盛るからだ。「したがって君主にとっても、人民にとっても至高存在、創造主、統治者、報酬者、報復者という観念が心の奥深くに刻まれていることが絶対に必要である」。
627〜628頁

わたし、ヴォルテールは読んだこともデッサンしたこともないのでよく知らないのですけど、この「無神論の歴史」では教会の既得権益と堕落、執拗な社会支配を攻撃した有神論者として出て来ます。

この、「無神論」と「有神論」という言葉ですが、私の理解では、唯物論の世界観が無神論で、霊異神妙な存在を認めながらも自然の摂理はそれ自体としてあって、その存在は人間の営みに関わるものではないという世界観が有神論です。18世紀のあたりでは、前にも書きましたが、教会は権威を失いつつありますが、多くの思想家は民衆や社会のためには神という指針が必要だと考えて、神はいないという無神論を主張することに戸惑っている状況です。また、それまでの魂は不死であるという考えから、死ねばそれで終わりその先はnothing!という主張を受け入れることにも躊躇いがあります。


気の毒に。神がいないと人は野獣と一緒だと認めるヴォルテール。
でも神がいても国王は臣民を殺したし、臣民は国王を殺したのではないのかな。
すでに国民主権を建前とし法治国家で権利を主張できる現代に育った我々は、法と、有益であることに基づくルールを有心化した道徳こそが人間社会を維持するもので、宗教や神は必須ではないと知っています。宗教がなくても、教育があれば道徳心は養えるはずで、宗教は過渡な麻薬に陥りやすいと考えます。


先日読了したAs meat loves salt は見事なDisasterに終わり、読後すぐには物が言えないくらい衝撃を受けましたが、世の物語によくあるようにスティグマを負うものが周囲を巻き込んで不幸になってゆくという筋書きで納得するのは私には難しく、ヤコブがいくら利己的で暴力的になりやすくても、そんな人間はいくらでもいて、むしろ、人はいつでも他人にとっての狼であること忘れずに生きていかなくてはならないのだと思いました。

血の気が多くて無分別な生き物が、他人を害さずに生きていくのは難しい。強烈な怒りに駆られたとき、ポケットにナイフや銃がなかったことが、多くの人のその後の人生をより歩きやすいものにするのだと思います。


ヴォルテールの時代までおよそ1800年の間、キリスト教が西洋社会を動かしていたとして、どうして神の存在の故にのみ、人間が良き行いを選択するのだと言えたでしょうか。


今まで無神論の歴史とヒストリカルをいくつか合わせて読んできて、

神がいてもいなくても、人は隣人を殺すし、愛するのだ、と嘆息せずにいられません。










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dancing bear [読書日記]

as salt loves meat、80%ほど読み進めました。

’虚無’が硬かったので、キャンディを置いておこうと思います。


Ferris smiled. 'You're a good reaper.'
'I'm your dancing bear, that's what I am.'

フェリスは微笑んで言った。「おまえは草を刈るのが上手だ」
「おれはおまえのdancing bear だよ。それ以上でも以下でもない」


また別のシーンでは、

He crawled under the bush and as he came through to my side I put my arms about him and kissed his neck where the horseman had spat on it.
'Don't, Jacob! You'll unman me.'

彼(フェリス)が草むらをかき分け隣に座ると、私は彼に腕を回し、さきほどの馬に乗った男が唾を吐きかけた首筋にキスをした。
「やめろ、ヤコブ!おまえは俺をunmanにする」




dancing bear は、検索すると

A tame bear, often called a dancing bear, is a wild bear that is captured when the animal is young, though some of them are born and bred in captivity.

猛獣を飼いならして言うことを聞くようにするやつ。
また、イギリスには「クマいじめ」とかいう伝統がありますから(本当にいじめる)、そのニュアンスが濃いかと思います。


また、unmanは、

男らしさを失わせる、ひどく気落ちさせる、取り乱させる、(…を)去勢する

という意味。



危うい関係です。

ちっともキャンディじゃないですか?

でもこういう場面は少ないので、ちらっとでも出てくると、ロマンス!甘い!と思えます。















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虚無 [読書日記]

無神論の歴史、今やっと18世紀末まで来て、もはやフィロゾフたちは神の存在の証明は誤りであるとみなすけれども、完全に神がいない世界を受け入れる用意は出来ていない。

若い時に神学教育を受けたレッシング(1729-1781)は、啓示は時代遅れだと考えた。人間はもはや既成の宗教を必要としなくなった。

人間は合理的なやり方で、善のために善を行いながら、褒賞を目的とせずに振る舞うことができる。

しかしリヒター同様レッシングは、死へと道を開く無神論者の世界の無限な空虚を前にしてパニックにとらわれた。レッシングはこの虚無を輪廻説で埋め合わせようとした。輪廻説によれば、誰もが、無数の再生の過程で完成の域に達することができた。



フィヒテ(1762-1814)は熱心に神が存在しないことを証明しようとした。それにもかかわらず、無神論者と言われることを拒む。

本質的な実在は、完全に自由な我、主体だった。「すべて人間は本性的に自由である、誰ひとり彼以外の法を彼に課する権利はない」。われわれの行為は、すべの人間が「理性ならざるものに対して完全に自由、自立、独立したものとなること」をめざさなければならず、各人の運命は人類共有の運命に結びついており、人間は神を必要としない。587頁

神、それは世界の道徳的次元を表し、理想であり、個と全との完成を担保するものである。「生き、作用するこの道徳的次元は神そのものである。それ以外の神をわれわれは必要とせず、またそれ以外の神を考えることはできない」。


レッシングはやがてヤコーピに、「たぶんわたし自身が至高存在であって、今は極度の収斂状態にあるのです」、と打ち明けてしまうことになる。



こういう感じなのですが、読んでいて思いました、

それって仏教じゃないの?

天上天下唯我独尊


有神論だ、理神論だ、と言っているものの中身は、もうほとんど仏教的でさえあるような印象を受けます。


しかし、仏教といえば、マックス・ミュラーの時代、1823-1900、つまり今読んでいる時代に続く、次の時代なのですが、涅槃というのは要するに虚無だと言われ、そんなものは宗教でもなんでもないとされたのですよね。あやふやな、記憶を辿ると。


殴られたら死ねるんじゃないかと思われるような大著、あの『比較宗教学の誕生』を読み直すには私の根性は薄っぺら過ぎてまるで用をなさないのですけれど、パラパラとめくってみると、こう書いてあります。

仏教は神格も永遠なるものも、絶対者も認めませんでした。そのため魂はおろか我、すなわち最小限の自我、バラモン教に言うアートマンさえ、仏教の正統派形而上学は刹那的な、本質のない、幻影であるとみなしたのです。

仏教聖典に記されている涅槃に関する形而上学的な思弁を注意深く読めば、誰しもビュルヌフと同じ確信を得るはずです。すなわち、「かの涅槃、至高の目的、仏教の<最高善>は完全なる虚無である」と。


我は我の主である。他に何の主があろうか?(『ダンマパダ』第160他)

自らを統御する者は、自らのよく統御された我によって、未踏の地に赴く。(同第323偈)

そしてこの「未踏の地」が涅槃なのです。


涅槃とは、ろうそくの火が消えるように、消失すること。

後代いかなる恣意的解釈が加えられたにせよ、たしかに消失を意味します。語源的見地からも、具体的に「吹き消すこと」「死ぬこと」を含意しうるようです。しかし涅槃の語はバラモン教の文献にも見えており、そこではモークシャや、ニルヴリッティなどの、精神的解放もしくは至福の最高位を表す言葉の同義語とされ、魂の消滅の意味はありません。


この、「魂の消滅」も、元キリスト教徒達は恐れました。それまでは神がいて、人間の代わりに罪を贖ってくれる神の子イエスがいて、死んでも魂は消滅しないと言われていた世の中で、教会が教えるような存在は社会統制のための都合の良い作り話であり、不滅のものは存在せず、人間は死ねばそれで終わり。ということを突きつけられたとき、それは受け入れがたいことだったのでした。(と、無神論の歴史に書いてあります)



マックス・ミュラーの時代、またデュルケム(1858-1917)の時代でも、学者達はキリスト教会と社会に遠慮しながら、宗教学なるものを推し進めていた印象を持っています。世界各地に伝わる宗教は野蛮人達の間違った法であって、キリスト教のみが正しいのだといいながら、それでも比較検討する余地はあるとなんとか。そんな論調が多いように思います。

それから考えると、無神論の歴史は1世紀ばかり早いような気もするのですが、無神論の歴史に集められた主張は時代の端緒を開くものだったと位置付けると、それは彗星の尾のように長いもので、その遥かな旅の過程を思い、嘆息せずにはいられません。



今朝のニュースでみた、エジプトのイマームの話もまた。















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Devil inside [読書日記]

You belong to your father, the devil, and you want to carry out your father's desires. He was a murderer from the beginning, not holding to the truth, for there is no truth in him. When he lies, he speaks his native language, for he is a liar and the father of lies.

John 8:44



The salt loves the meat 、

ヤコブが father of lies と宣うので、それって何やと思って検索すると出て来ました。ヨハネによる福音書:

あなたはあなたの父、悪魔に連なるものである。あなたは父親の野望を受け継ごうとしている。彼は始まりの時から人殺しであって、真実であるものはなにも持たず、彼という存在の中に真のものは何も無い。彼が嘘をつくとき、それは自分の本性からの言葉であるのだ。彼は嘘つきで、偽りの父であるからである。

↑勝手に訳しました。ネットで出てくる和訳はこちら↓

あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ。


これってちょっと私の琴線に触れるのですが、コンスタンティンか、エクソシスト的な映画でこういう話出てこなかったかな。

When he lies, he speaks his native language.  悪魔が嘘をつくとき、それは彼の自然の言葉。

誰か覚えていませんか?


もとに戻ると、ヤコブはつまり、悪魔め!と言いたかったのだな。ということがわかりました。

まあね。そうかな、と思ってましたけど。


さて、悪魔。善良であるはずの自分に不都合な考えが浮かんだ時、それを悪魔の囁きということに出来るキリスト教徒。(ごめんなさい)

でもそれって自分でしょ。

ヤコブよ、悪魔などという大げさで作り物が存在するのじゃなくて、そこには冷静でネガティブな、気にかけてもらうことの少ない”自分自身”がいるだけなんだ。

ヤコブがこれほど自分の中の冷血や凶暴さに罪悪感を持たず、善を希求して救われたいと思わなければ良かったのになぁ。











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