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Always being of two minds, [読書日記]

Always being of two minds, I let them both work for me.


いつも二つの人格を持つの、そしてどちらも私のためにはたらかせるの。

"In the house of four seasons"より


キアラン・カーソンとドナウ川の本でコレスポンダンスをして遊んでからというもの、そういうのが染み付いてしまって、

読んでいる本と本の間、思索と現実との間にコレスポンダンスを探してしまうようになった。

ま、「こじつけ」「曲解」ともゆーんですけどね。


それだから、そして文章そのものが難解でもあるため、『宗教生活の基本形態』をなかなか読み進められません。

序論で何を言っているのか一度では理解できなかったので読み直したり、

マックス・ミュラーのことを思い出したり、

そして現実世界に起こっている様々なことに思いを馳せたり。


私は宗教の勉強するのが大好きだけど、宗教を本気で信仰するなんてありえないと思っている。

生まれ変わったら男に生まれてバチカンで一生過ごしたいとか、ペットは死ねば人間よりも偉いものか、人間の中でも幸福なものに生まれ変わるだろう、とかよく言うけど、

そんなことは方便で、死ねばそれで終わり。無。終わり。


けれどもなぜ宗教というものがあるのかと言えば。

「集合表象は、単に空間においてのみならず時間においても広がりをもった膨大な協働の所産である。これを形作るために、多数のさまざまな人間精神が、彼らの観念と感情とを彼らの観念と感情とを結びつけ、混ぜ合わせ、組み合わせたのであり、長きにわたる世代の全体が、彼らの経験と知識とをそこに積み重ねたのである。それゆえにそこには、個人の知性よりも無限に豊かで複雑な、きわめて特殊な知性が集中されているかのようである。こうして、経験的認識の射程を超える能力を理性がのどようにして手に入れたのかが理解される。理性はこの能力を、何か訳のわからない神秘的な効力に負っているのではなく、単に、人間が二重であるという事実に負っているのである。人間のうちには二つの存在がある。すなわち身体を基底としまさにそのことによって活動範囲が狭く限定されている個的存在と、知的かつ道徳的次元において、我々が観察によって知り得る最も高度な実在ーこの実在を私は社会と理解しているーを我々のうちに体現している社会的存在とである。

(序論 探求の目的ーー宗教社会学と認識の理論40p)


この、一人の人間の経験的認識の射程を超える知性が集約され、知的かつ道徳的な認識の共有を可能ならしめるために作られたルールが宗教であって、これを私は昨晩、読み直しながら、ルロワ=グーランの人間の能力のアウトソーシングの話のことを思い出したのだった。

人間は、その能力を外部に顕在させ、強化を図る。肉を食いちぎるための歯や顎を刃に、獣を倒すための腕力を武器に、感情や知識を共有し記録するために言葉(発話)を文字に。

そんな感じのことが書かれてあったと思う。


そしてタイトルは今朝読んでいたジェフリー・フォードの短編集の中から。

この台詞を言ったImaという登場人物のことはまだ理解できない。heでもありsheでもあるらしい。

というか、このお話自体、まだ全然理解できていないんだけど。











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