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leaving behind a shriveled husk of a man [読書日記]







読んでいます。アントワーヌ・メイエ。1866年生まれ、フランス人の言語学者で、23歳にして、ソシュールの代理で講義を行ったというから驚きます。えーー!

この本は、第一次大戦の途中に執筆され、戦間期に多少修正されたもののようです。

初版はしがきより

現今の事件(第一次世界大戦)がなかったならば、本書は執筆されなかったであろう。(略)
ここで述べようとすることは現在のヨーロッパの言語状況であって、19世紀以来激化している民族の虚栄心や自負が望んでいるような言語状況ではない。


つづいて第二版はしがきには、

言語間の不平等は国民間の不平等以上に大きい。フランス語の知的、社会的価値と、ブルトン語やバスク語の知的、社会的価値に共通の尺度は存在しない。


とあり、民族の言葉、消えさろうとしている土地の言葉を、伝統であり貴重だからと言って保存しようとする立場とは、メイエは逆の意見を持っているというのが最初にはっきりします。

それについてはわたしには反対あるいは賛成といえるほどの考えは今のところなく、ただ読んでいて面白く、楽しい。

特に気を引かれたのは西ヨーロッパに現存する唯一の非印欧語族であるバスク語に関してで、

バスク語はピレネー山脈の西側の北部と西部、すなわちフランスとスペイン(大部分はスペイン領)で使用されており、完全に孤立した言語である。(第3章 ヨーロッパの印欧諸語 89p)

バスク語は、これまで真の文学を生み出したことがなく、また外部に影響を与えたこともない。バスク語は、近隣の諸言語から大量の語彙を借用したが、みずから与えたものはほとんどない。 バスク語は古代の言語事情の証人であり、言語学者にとって興味深い観察対象ではあるが、政治的にも社会的にもほとんど役割を果たしていない。

とばっさり言い切っているところです。
もちろん、19世紀〜20世紀の時代の人には、その時代の見地がある、というものです。
なので、




こういうものがあるけど、じゃあこれは?というような反駁は、したいと思いません。ただ、バスク文学と言われたらこれ思い出すでしょ、というので久しぶりに本棚から取り出して、ページをめくってみました。


一つひとつの喪失は、僕らの内面に残された黒い輪だ。


キルメン・ウリベのこれはダイナミックな時代の流れと美しい言葉が書き綴られた、とても心惹かれる作品です。読んだのは、もうだいぶん昔なので、おぼろげなイメージしか残っていませんが。
そういえばわたし、文学については(というか他の全てについてですが)ちゃんと学んだことがなく聞きかじりのなんとなく、で今まできたので普遍的な言葉で述べることはできませんが、それを言葉による芸術乃至芸術体験の喚起であるもの、と捉えるなら、ウリベのこの小説は確かに一級の文学だったと思います。



訳者あとがきを読むとこうあります。

バスク語による文学作品が初めて出版されたのは16世紀半ばのことで、それ以降、大半の作品は20世紀に入ってから書かれている。

(つまり、メイエがこう書いた後ということですね)

しかも1936年に勃発したスペイン内戦では、多くの作家や知識人たちが命を落としたり亡命を余儀なくされ、その後のフランコ体制下ではバスク語を使うこと自体が困難な時代が続いた。そのなかで、バスク語で書くことをあきらめず、正書法の統一やバスク語教育に取り組み続けた人々のおかげで、バスク語とバスク文学は今日まで生き延びて来た。


感動的。


言語学者の思惑とは反対に、民族の言葉を守り伝えようというのが以降の時代の潮流。
その言語でしか表現できない感覚、土地や民族の記憶に由来する抽象的な概念というのがあるのは確かなんだと思います。それを残すことに普遍的価値はあるのか、また、バベルの塔化ではないのか、というと、これはもう価値観の違いなので、議論で解決できない問題なのではと思います。

とはいえ、バスク文学の珠玉、と言われても、邦訳で読めばどの辺がバスク語由来なのかはさっぱり。バスク語話者の人々の歴史や感情というならそうだけど、それはスペイン語でも書け、日本語で読んでも伝わるのでは?と思いませんか?思ってしまいます。じゃあ、何がそんなに珠玉なのか、というのを理解するためには、バスク語で読むしかなく、世界の大部分の人にはそれができないので、そういうことならメイエが言うように、普遍性がなく、需要の小さな出来事にしか過ぎないのです。

では言語による文学性って何だろう?
文学を生み出すことができる言語とは?

文法と、微妙な感情や抽象概念を伝えるに十分な豊富な語彙と集団合意を持っていて、そしてそれらの話者の中に時代を先見するような詩人を生み出せるような可能性を持つ言語であること?

難しいですね。ちゃんとした大学にいって文学を勉強していれば、もうちょっと深く考察できるのでしょうが。だれか詳しい人がいたらぜひ教えてください。


さて、でもわたしも日本語の本を読み続け、英語の本も少し読み始めた身としては、それぞれの言語について好きだと思えるところがいくつもあります。最近では、今、M/M読書会で読んでいるお話で、

HIs spirit or soul had already gone, leaving behind a shrived husk of a man.

この一文が好きでした。物語としては、子供の頃からの親友を看取った男性のその後のお話。「かれの霊魂はすで去っていて、衰えた人間の形をした殻が残っているだけ」というようなことを言っているのだと思います。
逐語訳にすると、

彼の精神あるいは魂はすでに去っていた、萎んだ人間の殻を後に残して。

と言う風になるのかな?

leaving 以下の修飾節が、平易な前半を個性的に色付けしていてとても良いと思います。そもそも現在分詞や過去分詞で修飾してくるのが好きですね。わくわくします。

それから、もう何年も前に祖父が死んだとき、「もう親爺の魂はここにおらん」と言った叔父のことを思い出します。

生き物が死に、事物が絶えることは必然のこととわたしは考えるほうです。魂は消滅し、輪廻転成しないのが理想。祖父も祖母も、父も母も、わたし自身も無に帰すのです。20世紀の西洋人はこれを虚無主義と捉えたようですが、むしろ、生きる意味やどう生きるかはそこから派生するように思います。あ、でも無から有は生み出せないから、全体に還ると考えたほうが良いのかな?

言語の話に戻ると、印欧語族とは、有史以前に存在していたと結論づけられる、ケルト語派、ロマンス語派(新ラテン語派)、ゲルマン、アルバニア、バルト、スラヴ、ギリシア、アルメニア、インド=イラン語派共通の祖先となる言葉で、文字や文章としては残っておらず、各言語を分析することによって存在を確かめることができ、広範囲に分布し、文化を形成し、変化して、現在のヨーロッパの土台となった言語だそうです。形骸は残っていなくても、今ある語の断片から存在を推し量ることができる。形あるものはいつか滅びるけれど、在ったものを完全に無くすことはできない、のかな。と考えさせられます。

言語学、すばらしい。























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More in heaven and earth [読書日記]



読みました。

みんな大好きジェフリー・フォードの短編です。

Three friends go looking for treasure and find horror in Jeffrey Ford's The Twilight Pariah.

All Maggie, Russell, and Henry wanted out of their last college vacation was to get drunk and play archaeologist in an old house in the woods outside of town.

大学最後のヴァケーションでマギー、ラッセル、ヘンリーがやりたかったのは、酔っ払い、町外れの森の中の古い家で考古学者ごっこ、だったのだけど。

When they excavate the mansion's outhouse they find way more than they bargained for: a sealed bottle filled with a red liquid, along with the bizarre skeleton of a horned child

赤い液体が入った密封ボトル、そして角の生やした醜い子供の骨ーー、彼らが予想もしないものを掘り当てたとき…


という、ありがちなサマーヴァケーション・ホラーなんですけど、人物と細部がジェフリー・フォード流なので、とても楽しく読みました。

さてタイトルは、マギーの大学の教授ジョー・メドレイが3度言うセリフ。もとはハムレットの台詞の引用のようですね。

There are more things in heaven and earth, Horatio,
Than are dreamt of in your philosophy.
- Hamlet (1.5.167-8), Hamlet to Horatio

天と地の間には、ホレイシオよ、お前の哲理よりももっと色んなことが創造されているものなのだ


この教授というのが、マギーによると

"He's old, he kind of smells like a vase of dead flowers, he wears suspenders, and he doesn't say much unless he's lecturing."
"Can't wait," said Russel.

一人称の主人公ヘンリーによると

There was an aroma about him, like farts and chicken soup.

腐った花の匂い…おなら…チキンスープ…


会うのが楽しみと言ったラッセルにも頷けるというものです。いろんな意味で。

ところで、今読んでいる別の本では(盲目の男性と男娼のお話なのですが)、主人公の知覚情報が視覚にたよらないもののため、嗅覚や音声による判断がよく出てきます。しかも匂いに関しては、人間臭い猥雑な匂い、汗や排泄物、古い油の匂いなど、あまり良い匂いとは思えない匂いが多く、頭の中でイメージしながら読むとちょっと疲れます。

目が見える者の意識からすると、嗅覚や音声は視覚に結びついていて、その為に嗅覚や音声が物体や現象を呼び覚ますのだと思えますが、主人公ハンターは、フランクの電話の声を聞き、

The voice fell over him like a spell,

魔法に掛かったようにいくつかの匂いに包まれます。

like a sachet of rosemary, citrus, and the tangy foreign texture of myrrh.

ローズマリー、柑橘類のサシェ、それから異国風のミルラの匂い

このことはわたしには少し意外で想像が難しく、音や匂いは形を持っていないけれども、単に物体の属性というだけでなく、別の局面でライトアップされる固有の存在なのかもと考えさせられ、面白く感じられました。
先ほどの文句を思い出してみれば、創造主は天地創造の際に音と匂いもちゃんと作ってあったんだと思えます。(というか、天と地と出てきたので、わたしが勝手にthe Creation、天地創造にイメージを寄り合わせて訳しただけなのですけど)

ところで創造主というと、もう1冊、



これも今読んでいる本ですが、この中でレーヴィは、

創造主は腐敗しないものを好まない。

と書いていて、面白いです。

また、レーヴィはこうも書いています。

だがもっと重要なことがある。排泄物から化粧品を作ること、あるいは、「糞から金を作る」ことは、わたしを驚かせるどころか、楽しませ、心を暖かくしたのだ。それは原点に戻ることと同じだった。錬金術師が尿から燐を取り出した頃と同じだった。これは未体験の愉快な冒険で、高潔でもあった。なぜなら、再興させ、回復させ、高貴なものに高めるからだ。自然はこうしたものである。森の下生えの腐敗から美しいしだ類が育ち、堆肥から牧草が育つ。ラテン語の「堆肥(レタメン)」とは、元気づけること、という意味ではなかっただろうか?(窒素 277ページ)



先ほどのハンターさんには、目が見える人にとっては眉をひそめるような野卑な匂いであっても、知覚情報源の一つとして抵抗なく受け入れられるようです。でもそもそも”汚いもの”という感覚が、相対的でしかも偏りに近く、”自然とはこうしたもの”に反しているのでしょう。

in heaven and earth

目に見えて、常識として知っていること以上に、世の中にはもっとたくさんのものがあるのです。

と、臭くて野暮ったくて得体の知れない大学教授ジョー・メドレイも言っているのです。
















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2017年の心に残る読書3つくらい選 [読書日記]

今年は長くなりそう。
うまく書けるかしら?
気楽に行こう。



それから父さんは死んだ。で、おれは飢え、それから、あの船。それから…、
それから、アメリカ。そうして、ジョン・コール。

まず最初に思い出すのは、セバスチャン・バリー描くアイルランド人の物語です。

"Days Without End"

まずじゃがいも飢饉があって。
移民船に乗り込んだ孤児トーマス。
(移民船はアフリカ人の奴隷船を彷彿とさせる劣悪なもので、子供がひとり、よく生きてたどり着けたな、というようなもの。)
そして、アメリカ。
そして、運命のジョン・コール。

この本は、孤児で役者で兵士で農夫のトーマスの一人称という設定で、言い回しも非常にたどたどしいものであるため、読みにくい英語でしたが、さすがさすがの豊かな視点、ポエジーを感じさせる感性がいたるところに湧いて出ていて、ため息をついたり、感動しながら読んだのでした。

特に、まだ若い彼らの野営地でのひとこま、

Two soldiers walking under the bright nails of the stars.

というのの美しいことに感動し、イメージを残して読んでいたら、もっとずっと後、インディアンの養女を連れての夜を徹しての旅の途上で、

He pulls his hatbrim down, under the moon. With the dark trees around. And the owls. Don't mean nothing. Be hard to be in the world without him. I'm thinking that. That part of the country you see two or three shooting stars a minute. Must be time of year for shooting stars. Looking for each other, like everything is.
(chapter 17のラスト)

とあり、

ジョン・コールは月明かりの下、帽子のヘリを目深に下ろす。暗い森の中。梟が鳴く。なんでもない。彼がいなければ堪え難いだろう。おれはそう考える。そこいらでは1分に二つや三つの流れ星が見える。たぶん当たり年なんだろう。流れ星はお互いを探している。他のいろんなものと同じに。

という感じかな。
ふーん…。流れ星の当たり年というのはある。
わたしも以前、見たことがある。1分に、といわず、30秒に5つも6つも流れていた。
でも流れ星はお互いを探しているかしら?孤独に飛んで消えていってしまうものではないの?
他のすべてのものと同じに。

だからここは、筆者の勇み足だと思いました。

でもやがて、22章で、

春が来て、森から、鳩の鳴き声する。すると、ジョン・コールが保護してきてトーマスに贈った嘆き鳩のGeneral Leeが頭を傾げ、くーくーくーりこ、と鳴く。
彼女の羽が癒えたら、放してやるつもりだ。くーくーくーりこ。
Looking each other, like the shooting stars. Like the Tennessee owls. like every damn thing.

ここを読んだとき、はっと胸を突かれたのでした。

流れ星がお互いを探しているものの表象なのじゃなかった。
彼らは流れ星に自分たちを見たんだ。ジョン・コールとトーマスがお互いに結び付けられている、そんなことは当たり前なんだという地平の上でトーマスが見るもの、それらはみな”お互い”を探す相手がいるものなのだと彼には思える。自分たちと同じように。

そう考えさせられたのでした。
ちなみに、このお話の大半は殺伐とした情景です。飢え、凍え、殺しあっています。そういう時代だったんだ、と思って読むしかない出来事の中で、ジョン・コールとトーマスの硬質な愛が冬の冷たい夜空に輝く星のように美しいのです。




次に、といって思い出すのは、やっぱりこれ、




『夏幾度も巡り来て後に』

オルダス・ハクスレーは、"Singe Man"に引用されてまずタイトルに興味が湧き、読んでみたいと思って手に取りました。

After Many a Summer

テニソンの詩「ティソノス」の一部分に由来するタイトル、

And after many a summer dies the swan.

幾年月の後には、長寿の白鳥さえも死に果てるのです。
(対訳テニスン詩集 西前美巳編)

です。

暁の女神に愛された青年ティソノスが女神に願ったのは不死。でも、よくあるように、言わずとも不老とセットにはしてくれなかった。ティソノスは死ぬほど長い時間を老いて生きます。不老不死の女神は別として、長寿とされる白鳥でさえ、長い年月のうちに死ぬのに。ティソノスは死ねない。美しさを失い、老衰し、憔悴した彼は、今ではこう願います。

To hear me? Let me go: take back thy gift:
Why should a man desire in any way
To vary from the kindly race of man,

このタイトルとあのラスト、シニカルで難解、多層の構成の末に、良識を、よりよく生きようという個々を、あざ笑うようなあのラストが、印象的でたいへん面白かったです。
この小説を70年代(だっけ?)アメリカの大学の講義で使ったシングルマンのジョージの胸中も合わせて考えるとより楽しかったです。



そして、3つめ。少し前までは『奴隷船の歴史』を選んでいました。とても面白く、参考になったから。でも昨日、



『アウシュヴィッツは終わらない』

を読了し、これだと思いました。

事象の非道さよりも、ここに書かれてある魂の、なんと言おうか、やっぱり美しい、と、言えることに驚いたから。
ほんとうにそうだ、と心から賛同するので何度も引き合いに出しますが、『台湾海峡1949』の龍先生が、あとがきかどこかに書いてらしたような、戦禍などで不遇に亡くなった人々へ灯すろうそく、あるいは祈りとして文学があるとき、それはどんなにひどい出来事を書いていたとしても、やっぱりどこかとても美しいものが内包されていて、読む人の心を震わせるものだと思っています。だから、そうやって心が震えるとき、そのろうそくの火や祈りは、亡くなった方々の魂の慰めになっているのだと思えます。

この本では、特に、プリーモがダンテの神曲の中の「オデュッセウスの歌」を暗唱する場面が圧巻でした(131頁〜 オデュッセウスの歌)。


さあ、ピコロ、注意してくれ、耳を澄まし、頭を働かせてくれ、きみに分かってほしいんだ。

きみたちは自分の生まれを思え。
けだものののごとく生きるのではなく、
徳と知を求めるため、生をうけたのだ。

私もこれをはじめて聞いたような気がした。ラッパの響き、神の声のようだった。一瞬、自分がだれか、どこにいるのか、忘れてしまった。


ーーここまで読んでいる人にはわかるのですが、この感動を味わうためには、収容所がどうであったかを落とし込む必要があります。


ガス室行きの回教徒(衰弱し、力を失った収容者への隠語)はみな同じ歴史を持っている。いや、もっと正確に言えば、歴史がないのだ。川が海に注ぐように、彼らは坂を下まで自然にころげ落ちる。収容所に入って来ると、生まれつき無能なためか、運が悪かったか、あるいは何かつまらない事故のためか、彼らは適応できる前に打ち負かされてしまう。彼らは即座に叩きのめされてしまうので、ドイツ語を学んだり、規則や禁制の地獄のようなもつれあいに糸口を見つけたりすることもできないうちに、すでに体は崩壊し、何をもってしても選別(ガス室行きを意味する隠語)や衰弱死から救い出せなくなっている。彼らの生は短いが、その数は限りない。彼らこそが溺れたもの、回教徒であり、収容所の中核だ。名もない、非人間のかたまりで、次々に更新されるが、中身はいつも同じで、ただ黙々と行進し、働く。心の中の聖なる閃きはもう消えていて、本当に苦しむには心がからっぽすぎる。(107頁 溺れるものと助かるもの)


話は逸れますが、ここは以前のわたしの日記で引用した、Days without endの以下の箇所を思い出しました:

Souls ain’t like a great river and then when death comes the souls pouring over the waterfall and into the bottom land below. Souls ain’t like that but this war is asking for them to be. Do we got so many souls to be given? How can that be?

魂は、川のように流れ、死に際しては滝に落ち、地下の国に注がれいくようなもの、じゃない。人は、そういうものではないのに、今度の戦いは人にそうであるように強いている。これほどの人数の人々を俺たちはその川に投げ捨てたのか。どうやってそんなことが?


これらの、人の生き死にと川の象徴は、具体的に元になる詩や文章があるのでしょうか(ステュクス的な?)?
それとも人類に普遍的なイメージなのでしょうか。
つまり、行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶ泡沫は、かつ消えかつ結びて久しくとどまりたるためしなし。 世の中にある人とすみかと、またかくのごとし、というような。ここはちょっと興味深かったところです。


閑話休題、
今でこそ不屈と思われる自由という概念は、当時、一握りのエリートしか持っておらず、そのエリートは最初にナチスに攻撃され、残った人たちは反抗する、反撃する、という発想自体を持っていなかった、というようなことをレーヴィが本の後ろのほうで書いていました。
この歯の立たぬ、暗き流れに流されていくしかない収容所での日々の中で、
感覚を麻痺させ、苦しみを苦しみと感じないよう、希望を抱かないようにして生きる蒙の中で、
この時、この詩を暗唱し、フランス語とドイツ語は流暢に話せても、イタリア語はあまりわからない24歳のアルザス出身の学生ジャンに伝えたいと、
灰の中から人間の理性が蘇るひとときを、このわずかな理知の閃光を、
やはり言葉なのだ、詩なのだ、と感動せずに読み流せる”書物の民”がいるでしょうか。


味気ない訳と、おざなりで平凡な解釈にもかかわらず、彼はおそらく言いたいことを汲み取ったのだ。自分に関係があることを、苦しむ人間の全てに関係があることを、特に私たちにはそうなのを、感じ取ったのだ。肩にスープのかじ棒をのせながら、こうしたことを話し合っている、いまの私たち二人に関係があることを。






来年もたくさん本が読めますように。





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no matter who came and went [読書日記]


毎年、秋から年末にかけては忙しくて、日記を書く意識から遠ざかっていました。



これを読み終え、



こちらと



こちらは継続中で、



は昨日読了。


House of names、名前の家。

うーーん、わたし、キアラン・カーソンから心の中にアイルランドのイメージを発する楔を打ち付けられていて、アイルランドに無意識に反応するようになっているので、Days without endも主人公がアイルランド移民でアメリカの市民戦争を戦ったと書いてあったので読むことにしたのでしたが、このコルム・トービンは、ネットでたまたま見つけて、なんとなく惹かれて読むことにしたもの。まさかこの人もアイルランドの作家さんとは知りませんでした。運命を感じます。


この物語は有名なギリシア悲劇、オレステイアなどの物語をコルム・トービンが描きなおしたもので、トロイア戦争に向かうアガメムノーンが娘イピゲネイアを神々への供物とするため、妻クリュタイムネストラを娘の婚姻と称して露営地まで連れてこさせるところから始まります。

かの英雄アキレスと妙齢の愛娘の結婚と聞き、大急ぎで婚姻の衣装と整え、娘を連れて有頂天でキャンプへやってくるクリュタイムネストラ。
でもキャンプへついて知らされたのは、夫が娘を生贄にしようとしているという事実。
騙されたと知ったクリュタイムネストラはアキレスに頼んで逃げようとしますが叶わず。
イピゲネイアに母から娘へ代々伝わる呪いの言葉を教えて彼女らをないがしろにする男たちに報復しようとしますが、兵士に猿轡をかまされ、イピゲネイアも彼女自身も詠唱を阻止されてしまいます。
そして滞りなくイピゲネイアは喉をかき切られて死に、クリュタイムネストラは立つことも横になることもできない石穴に3日間放り込まれ、その飢餓と暗闇の中、汚物と手足のしびれの間で彼女は自分を生まれ変わらせるのです。

この話は、クリュタイムネストラと、彼女のもう一人の娘エレクトラの一人称、そして息子オレステスの3人称で物語られる章で構成されているので、最初、わたしは彼女たちの物語なのかな、と思って読んでいきました。
クリュタイムネストラがアガメムノンに復讐を果たした時点でわたしも溜飲を下げたのだけど、物語はまだ中盤。これから父を殺されたエレクトラとオレステスの復讐譚に移行するかと思うと、読む気が失せる…、と思いながら、しぶしぶ読み進めていった結果、あれ?何か違う、と気が付いたのがラストを飾るオレステスの章でした。

確かに、エレクトラは自分を顧みない母親に対して復讐心を燃やしている。エレクトラコンプレックスとは「エディプスコンプレックスの女児の場合を言い、女児が父親に対して強い独占欲的な愛情を抱き、母親に対して強い対抗意識を燃やす状態を指す」とウィキにあるけど、トービンは偉大な父親への独占的な愛情なる面をクールに薄めて、若い雌ライオンが持つ縄張りへの権力志向を切り出したように思います(母親そっくりな娘として)。でもそれすらも周辺的な扱い。なんだろう、この明確に語られないものが醸し出す存在感。読了後じわじわくる感じ。

Days without endの時も感じた、後に引く読書感。

英語で読むから読み取れない部分があるのかな、というのは否定しませんが、わたしは心理描写が親切すぎたり、蘊蓄を除き、くどくどと説明的で平明な文章よりも暗喩に次ぐ暗喩、遠回し、言い換え、書き控えの文章が好きなので、読んでいる途中はそれほど気にしていませんでしたが、読み終えた後、明確に読み取りきれなかったことについて考え込んしまい、これは、面白かった読書、と思わされたのでした。

オレステスがどう描かれたのかはここに書かないことにしましょう。この本を読む人への秘密です。ラストの強烈な幕引きがどんなメッセージなのか、わたしはまだ明確な意見を持てません。印象に残して、覚えておいて、いつか知りたいものです。

屍の山が築かれた長い夜が明け、オレステスと彼のアイドル、レアンダーは宮殿の入り口で曙光を迎えます。

完全な、圧倒的な夜明け。昔から変わらぬ、いつの世もそうであって、人の生き死にに関わりなく、人の営みに関係なく訪れる夜明け。

いつの日か、

In time, what had happened would haunt no one and belong to no one, once they themselves had passed on into the darkness and into the abiding shadows.












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Souls ain't like that [読書日記]

Souls ain’t like a great river and then when death comes the souls pouring over the waterfall and into the bottom land below. Souls ain’t like that but this war is asking for them to be. Do we got so many souls to be given? How can that be?
"Days without end" Sebastian Barry  chapter13

魂は、川のように流れ、死に際しては滝に落ち、地下の国に注がれいくようなもの、じゃない。人は、そういうものではないのに、今度の戦いは人にそうであるように強いている。これほどの人数の人々を俺たちはその川に投げ捨てたのか。どうやってそんなことが?


終わりなき日々。


ネイティブ・アメリカンとの戦いでは率いられるまま敵と戦い、闇と混乱の中とはいえ女子供も殺してきたトーマスですが、1861年に始まる南北戦争では、自分と同じような外見をし、同じ文化を持つ相手を敵とし、しかも威力の増した火力で殺しあうことに、多少の疑問を感じてしまいます。

It is not like running at Indians who are not your kind but it is running at a mirror of yourself. Those Johnny Rebs are Irish, English, and all the rest.


と、いうわけです。

戦い終えた戦場には、北軍側の新兵も太鼓叩きの少年も、無残な姿となり転がっています。彼らは仲間の遺体を埋葬する、それが死者への敬意を表するものだから。でもネイティブはそんなことしない。やがて狼が来て死肉を食べるから。埋めたとしても掘り起こして。彼らは埋葬し、神に祈る。でもキリストはこの国のことなど知りはしないだろう。なんと愚かな、我々は。


この辺りの筆致にぐいぐい惹きつけられて、夢中で読みました。それと同時に、疑問点も。

まず、トーマスよ。お祖母さんだかがネイティブのジョン・コールをこの世で一番のハンサムだと思っていて、スー族だか何かの部族の孤児を養女にし、この世で一番可愛い娘だと思っているのに、その同じ目でインディアンを同じ人間だとは見ていない?

この、まっすぐでない線引き。でもこういうところに気づくと、むしろそれがとても人間らしいことだと感じませんか。人は、往々にして漠然とした敵を憎み、目の前の存在には情をかけてしまうもの。例えそれが敵に属するものであっても。


それから戦争が人を変えるというところも考えさせられます。若いトーマスの以前の戦いでは入植者の生活を守るために、異種族の敵を排除するという大義があって。今度は反逆者と戦うという大義がある。けれども、今度の敵は自分と同じような外見の、同じようなルーツの人間達で、という。でも、そもそもトーマスはアイルランドの飢饉の時に家族を失い、ゴミ屑同然の扱いで新大陸にやってきたはず。貧しく飢えたアイルランド難民は、同じ人間として扱われなかった。こういうトーマス1人の背景を考えても、とても複雑です。
弾が当たれば死ぬだけの一兵卒。殺し殺され、生き残る度、今度の戦争は、と思う度に、生きる事によって変えられていっている自分を忘れて嘆いているものなのかもしれません。

人の命はそのようなものではなかったはずなのに。



それでも、後日談の形を取るトーマスの物語は

Young, and there would never be a change for that. 

Days without endで、それを思うとどんな惨めな場面も、どんな幸福な場面も、どこか胸が痛むものがあります。

(まだ50%しか読んでませんが)











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for that matter [読書日記]

カレン・アームストロングさん、ずっと以前に興味を持ち、著書を読んでみたいな、と思っていて、良いご縁があり、今回のチャレンジになったわけですが、やっぱり、そのときは面白いなと思って読んでいても、英語を頭の中で言語化していないので、本を閉じると、こんな事が書いてあったよ!と語れるほどの残るものはなく、曖昧な記憶しか残っていません。
わたしの頭では、そんなものかな。

でも、毎日、あー、面白かった!と思って読書を終えます。

今は第2章の"One God"を読み進めています。申命記やなんやらの叙述をもとに、プロフェットたちとユダヤ教の神の変化を読み解いているようです。

わたしはユダヤ教の贖いのレトリックがとても好きなので、というと角が立ちますが、本当にすごく興味があるので、書いてある事にワクワクしっぱなし。何か新しいヒントがあるんじゃないかと期待して。
こことか。

At a time when the cult of Yahweh might reasonably have been expected to perish, he became the means that enabled people to find hope in impossible circumstances.
Yahweh, therefore, had become the one and only God.
 A History of God :One God: 61p

ヤハウェの教団が如何にも滅ぶかも、という時に、彼(ヤハウェ)は、不可能と思われる状況の中で民に希望を見出させる原動力となった。
ヤハウェはそれ故に唯一無二の神となったのだった。


ここはアンダーラインを引くべきところのはず!と思って読んだのだけど、すらっと読めなかったし、日本語にしてみないと、もう一つよくわからなかった。わたしの上の訳は間違っているかもしれないけれど、意味は掴めると思う。この逆説、逆張りを、少数のエリートだけではなくある一定の人々を取り込んで信じさせ、存続させることが出来たということが、いくつもの逆境や困難にあってもユダヤ教とユダヤの民が現代まで生き残ってきた理由なのだと思うのです。

さて、章タイトルにもなっているように、ここでは啓典の民たちの神の一神教化、唯一の神となる成り立ちを説いていて、それまではマルドゥックとかバアルとか、いろんな神様がいた中で、ヤハウェの教団が教理的に先鋭化し、孤立してゆくところを辿っています。the one and only とことさら称揚しないといけないということは、他にたくさんライバルがいて、もともと唯一無二の、というわけではなかった、ということがよくわかる、楽しい部分ですよね。

ところで、one god と言われると、あれを思い出してしまいます。映画『カストラート』。
わたしはヘンデルの「わたしを泣かせて下さい」が好きなのでよく映画の歌唱シーンをYouTubeで視聴していたものですが、舞台の上でファルネッリが歌い終わった後、感動して沸き返った聴衆が、

One God, One Falinelli!

と声を揃えて賞賛をおくるのです。

神は1人、ファリネッリも1人!

とね。
この台詞の心情が日本人のわたしにはよくわからなかったのですが、今なら何か想像出来るような気がします。

The only oneであるという意味が。

ついでに言えば、この日記のタイトルは、今朝読んだDays without endから。

Thank God John Cole was my first friend in America and so in the army too and the last friend for that matter.

神よ、ジョン・コールはアメリカでできた初めての友達で、軍隊ででもそうで、最後の友達だった、さらに言えば


読書は楽しい。








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wanted compassion rather than sacrifice [読書日記]

昨日、あいまいな記憶で書いた箇所、読み返してみると少し違ったので、念のために本文を貼っておきます。

左のページの半分から下と、右のページの半分から上あたり。
わたしの厨二乃至金枝篇的嗜好が刺激されて面白かった部分です。



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出典、カレン・アームストロングさんのA History oh Godです。







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情けは人の為ならず [読書日記]

こんにちは、最近どうですか?
わたしはF F14のキャラをアウラからララフェルに戻し、再び新鮮な気持ちで、漁師稼業、ヌシ、オオヌシ釣りに挑戦しています。

読書のほうは、足掛け4年?英語の本を読むようになり、そろそろ電子じゃなくても読めるんではないか、と思い、ペーパーバックで、カレン・アームストロングさんの、A History of Godを読んでいるところです。

でもやっぱり、学生時代の不勉強がたたり、単語力がないので、わからない単語の連続です。辞書を片手に読むのも良いのですが、歳のせいか指先が不自由で、あと1ページがめくりきれなかったりして脳の血管が焼き切れそうな瞬間との闘いの連続になります。まだほんの最初のほう、2章に入ったところだし、初めて読むのでアームストロングさんの主張はあまり掴めておらず、実に多難な読書となっています。

でも、時々印象深い単語が出てきて楽しいです。例えばcovenant =契約ですが、確か先ごろ公開された映画エイリアンのタイトルがそんな名前でしたよね。コヴェナント村?号?映画を観た兄から話を聞いて、忘れましたけど、これって日本人には、はぁ、という単語でも、欧米人、啓典の民にはお馴染みの単語なのかな、と思いました。

よく言われるように、アブラハムやモーセは神と「契約」を結ぶのですが、その時代、その地方には豊かな信仰、宗教背景があり、ヤハウェは唯一の神ではありませんでした。モーセたちは彼を唯一の神と従い、その庇護を受けるのです。しかしやがて時代が降り、イスラエルが南北に別れていたころ、人々は古の神や犠牲を捧げる習慣を忘れることが出来ませんでした。そうしたイスラエルの民を罰する為に、神はアッシリアを遣わそうと決めます。
そのとき神はホロコーストではなくcompassion を望んでいるのだとprophets、預言者たちの口を通じて呼びかける、このcompassion=同情、憐れみが、この時新しく起こった宗教理念なのだとアームストロングさんは書いていました。(たぶん。手元にないので記憶です)

キリスト教が広まる時も、それは貧者へ手を差し伸べること、博愛、思いやりから始まったと読んだことがあります。

そうすると思い出されるのはThe Hobbit のビルボ・バギンズがゴラムにかけた情け=pityですね。

And he was miserable, alone, lost. A sudden understanding, a pity mixed with horror, welled up in Bilbo’s heart: a glimpse of endless unmarked days without light or hope of betterment, hard stone, cold fish, sneaking and whispering. All these thoughts passed in a flash of a second. He trembled.

The Hobbit より

The Lord of the Ringsでもこれに呼応する箇所があり、以前に日記に書いたのではないかと思います。
トールキンのあの壮大な物語の要に、このPityがあったことは興味深いことです。










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Renew thy beauty morn by morn [読書日記]

いま、ペースが落ちていますが、これ読んでます。





ハイライトをつけたり、ページの端を折り返しているところを少し。


まずはハクスレーのプロプター氏がピートに語って聞かせたことのピートの回想:

人間は、その性行動に於いてこそ、他に例なく専ら動物的でいるのだと思ったところで、人間は、依然として人間としてある段階にとどまっているのですよ。

これには少し補足を。プロプター氏は独自路線で面倒くさいソクラテスのような人物で、この物語の中で内省的な位置づけの登場人物はその話に耳を傾け心動かされずにはいられないという存在。彼が言うには人間は究極、善を成せない。人間としてある段階から昇華するか、あるいは動物であるときしか善は成就しないという。あれこれの考えから善を希求しても無駄なのだから、大きな希望を持って結局大悪を為すということにならぬように小悪をなしつつ満足して生きるのが良いのこと。

という意味は、依然として自意識の中に、つまり、依然として言葉の支配を受けているということーーそしてつまりは、言葉が在るところには、必然的に、記憶が、願望が、判断と想像が、在るということなのです。不可避的に、過去と未来が、現実と空想が、禍根と期待が、善と悪が、そして賞賛に値するものと恥ずべきものとが、美なるものと醜なるものとが、あるということになるのです。人間、男女にあっては、性行動という、粉う方なく極めて獣的な行為すら、こうした非動物的要因ーー言葉の存在によって、人間のありとあらゆる状況に注入される要因ーーの幾つかと、あるいは、全て結びついているのです。これは、正常な視覚なり、消化なりが在る、と言えるような意味で、”正常”と言える類の性行動は、人間には、一つとして無いということなのですよ。
250ページ


こういうプロプター氏の言説を読んでいると井筒俊彦を思い出してならない。




こうして禅は、すべての存在者から「本質」を消去し、そうすることによってすべての意識対象を無化し、全存在世界をカオス化してしまう。しかし、そこまでで禅はどろまりはしない。世界のカオス化は禅の存在体験の前半であるにすぎない。一旦カオス化しきった世界に、善はまた秩序を戻す、ただし、今度は前とは違った、まったく新しい形で。様々な事物がもう一度返ってくる。無化された花がまた花として蘇る。だが、また花としてといっても、花の「本質」を取り戻して、という意味ではない。あくまで無「本質」的に、である。だから新しく秩序づけれらたこの世界において、すべての事物は違いに区別されつつも、しかも「本質」的に固定されず、互いに透明である。「花」は「花」でありながら「鳥」に融入し、「鳥」は「鳥」でありながら「花」に融入する。まさに華厳哲学にいわゆる事事無礙法界の風光、
119ページ


こうなると、何度も引用するように、inxochitl incuicatl、『花と歌』も思い出すわけだ。


「繰り返し説かれるように、『花と歌』は『自己の心との対話』を習得した者の魂のなかにのみ存在する。これは一種の内奥の自己の神格化に結実し、『神格化された心』は『事物の神格化』に駆り立てられることになろう。こうしてあらゆる存在のなかに『花と歌』が注入されるのである」。
80ページ




次は、Goodbye to BerlinのSallyを。

" People have got to take me as I am," retorted Sally, grandly.
"Anger-nails and all?" I'd noticed Natalia's eyes returning to them again and again, in fascinated horror.
Sally laughed: "Today, I specially didn't paint mu toe-nails."
"Oh, rot, Sally! Do you really?"
"Yes, of course I do."
"But what on the earth's the point? I mean, nobody-" I corrected myself, "very few people can see them."
Sally gave me her most fatuous grin: "I know, darling...But it make me feel so marvelously sensual..."


そういえば、テニスン詩集買いました。岩波文庫の対訳のやつ。

Release me, and restore me to the ground;
Thou seest all thing, thou wilt see my grave;
Thou wilt renew thy beauty morn by morn;
I earth in earth forget these empty courts,
And thee returning on thy silver wheels.

Tithonusより








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Robert Guiscard [読書日記]





楽しく読書中です。
といっても、平日は眠すぎてほとんど読み進んでいないのですが。

曰く、8世紀末ごろからスカンディナヴィアに住む北方ゲルマン人がいわゆるヴァイキング(=ノルマン人)として南下し、フランス北部海岸地方に定着、その地をノルマン人の土地として、ノルマンディーが誕生しました。そして恩賞や出世からはみ出たノルマン人が立身を夢見て南イタリアに進出。やがてイタリアを支配する一大勢力となる、その中でも傑出した人物としてあげられるのが、ロベール・ギスカール

1046年、年の頃は30歳ほどの騎士が一人で南イタリアに現れる。ノルマンディーの地方豪族の一つオートヴィル家に連なる生まれだけど、供を連れ歩くほどの身分でもない、数多くいる兄弟の中の一人に過ぎなかった、それが、ロベール・ギスカール。

「ロベールは威圧的な性格の持ち主だったが、とにかく頭が良かった。戦うときには勇敢な戦士で、有力者の資産を狙う時はいつも巧妙極まりない。やろうと思ったことを邪魔する者は何者も容赦しなかった。背は高く、誰も及びもつかない。血色はよく金髪で、肩幅は広く、目は火花を散らさんばかりだった。全体としてがっしりしていると良いと思われるところはがっしりしていて、スリムだと良いと思われるところはスリムで、見事に均整のとれたからだをしていて気品があった。このように頭の先から足の先まで魅力にあふれているのである。それでいて、彼が唸り声をあげれば一万の人が逃げ出してしまうほどだったという。こんな人間だから、誰にも従おうとしない。身分は低くとも、これこそ実力者というものである。」(「第二章ロベール・ギスカール登場」 74ページ)


素敵である。
がっしりしていてスリム。肉体美を誇るハリウッド俳優さんのようではないか。
これを書いたのはビザンツの皇女で『アレクシオス伝』を残したアンナ・コムネナということなので、女性目線でヒーローの書き方を心得ている。ロベールは父の敵だったけれども。


イタリアで、ロベールはめきめきと頭角をあらわし、ぐんぐん出世して領地を広げ、カプアとカラブリアの領主となり、やがて、シチリアへと乗り出す。
その頃シチリアはサラセン人の支配下にあって、パレルモはイスラム支配の首都として最盛期には人口30万以上に達したらしい。うん?ちょっと待って、ハンザ都市の人口は、例えばリューベックは、ケルンについで北ドイツ最大の都市で、ハンザの領袖であっても1300年代に15,000、15世紀には25,000に近い数字、というから桁が違う。同時代の世界各地の人口の対比は興味深い。試しにこのウィキのページを見てみると、オランダの人口なんかぐんと少ないのに、ハンザはオランダ商人に追いやられたことになる。面白いね。

横道に逸れました。

シチリア攻略。
パレルモは海と山とに囲まれた要害の地で、水陸両用の攻撃体制が必要だった。
1064年に一度失敗して、1071年、今度は艦隊を用意してきた。港を封鎖して包囲し、1072年年明け早々開城。

とあるのだけど、待った。
艦隊はどこから用意してきたのだ。
陸の戦士がおいそれと海軍を運用できるかしら。明治初期の帝国軍、西郷従道公はどうだったかな。いやいや、大将はそれで良いかもしれないけれど、艦隊というからには、造船から、水軍の用兵、海戦の兵法などなど、一朝一夕ではいかんだろう。仮に、というかそうなのだけど彼らの祖先がヴァイキングでも、土地に定着してからも馬のみならず用船もずっと維持してきたのだろうか。

そんなことが気になって気になって、



を開いてみました。まず目についたのは、

ある中世史家の示唆するところでは、北西スペインのサンチアゴ・デ・コンポステラへの巡礼の道の近辺では、9世紀の大聖堂や修道院の記録によれば、馬産活動で賑わっていたという。(195ページ)

ノルマン人もこの時代、せっせとサンチアゴ・デ・コンポステラの巡礼に行ってたみたいなんですよね。馬を買う目的とかもあったのかな。

それから、

カロリング家の帝国が分裂すると、その後の西ヨーロッパにおいて最強の軍事力を誇ったのは、ノルマン人であった。彼らはバイキングの名で知られているが、10世紀初めには北西フランスにも進出し、その地は後にノルマンディー地方として知られるようになる。(同上)

このノルマン人こそ、騎馬隊の機動性をいかんなく発揮した軍事勢力であった。ノルマン軍の優秀さは、1066年南東イングランド沿岸におけるヘイスティングズの戦いでの勝利によって普及のものになった。この戦いで、イングランドのアングロ=サクソン族は、進行したノルマン人の軍勢によって敗北した。その様子はバイユー美術館に残るタペストリーの刺繍によく描かれている。(195ー196ページ)


とある。最後の引用はノルマン・コンクエストですね。

このバイユーのタペストリーにはヴァイキング船を思わせる船に乗るノルマン人の姿も見受けられる。じゃあ、やっぱり?


そこで本書に戻って続きを読み進めると、あっさり書いてありました。

バーリの人々の態度からわかるように、1060年代に入るまで、南のノルマン人たちが、戦いに船を利用した形跡はない。1060年代前半でも、せいぜいメッシな海峡を渡るのに使ったぐらいである。どうもノルマン人というと、ヴァイキングのイメージが強くて、誰でも龍頭船をあやつっていたかのように思いがちだが、そうではない。南イタリアにやってきたノルマン人は馬に乗った戦士、騎士である。彼らはむしろ海を苦手としていたのである。(「第4章古い支配の終焉」139ページ)

えーーーー

パレルモを陥とすのに、海軍が必要だということで、ロベールが先に征服したカラブリア地方出身者を中心として創設したんだって。

カラブリアはイタリアの長靴の先のあたりで、ウィキによると東ローマ帝国領だというので、ビザンツ、ギリシア人支配だったのだろう。当然、海運も盛んだったんだろうと予想できる。

ところで、ヴァイキングの末裔の海洋民、日本の水軍一族のような存在が、西欧にも脈々と受け継がれていたのかどうか。。。知りたい。





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