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and be a balm to them also [読書日記]

‘I want to speak to you all equally,’ said Father Buckley. 「等しく皆に申し上げます。」とバックレイ神父は言った。‘Many of you are new in the line and may find these experiences demanding. 「あなた方の多くが新しく戦列に加入してきた人たちで、これらの経験が厳しいものであることを実感しているかもしれない。I want to assure you that Our Lord God is with you and watching over you. 私はあなた方に請け負いますが、神はあなたとともにあり、あなたを見守っています。You are part of a division of astonishing men. あなたは驚くべき人たちの師団の一員です。I have observed the extraordinary piety among you men.私はあなた方の傑出した信仰を傍で見てきました。 Your sincere faith and your devotion to Our Lady in particular.特に聖母への心からの信仰と献身を。 You are fighting a holy war, あなた方は聖なる戦いに臨んでいます、not only in defence of the Catholic peoples of Belgium,ベルギーのカソリック教徒を守るためだけではなく、 but to attain a sure and incontestable certificate for the freedom of Irelandアイルランドの自由への決定的な証明書を獲得するために、 and her existence as a separate, proud and loyal nation. 一国のれっきとした独立国であるアイルランドの存在を証明するために。What unites us all is that certainty that God, who sincerely celebrates the goodness of every man, 我々みなを結びつけるものとは皆さんの善良さを心から祝福してくださる神、wishes only the best for you. あなたのために最良のもののみを願ってくださる神の絶対性であります。That you will flourish as soldiers and as men.あなた方が兵士として、また人間として、花を咲かせるであろう確実性であります。 He understands your fears and wonders at your courage. 神はあなた方の恐れを理解し、あなた方の勇気をみておられます。And know, men, that wherever you will go, I will follow, そして聞いてください、男たちよ、あなたがどこへゆこうと、私は従い、and insofar as it lies in my powers to do,私の力の及ぶところ、 I will be there at your side in your hour of need, あなたが必要なだけ側にいます。not just as a simple priest from the county of Kildare, キルデアからきた一人の司祭というだけでなく、but as God’s shadow on this earth,地上での神の御心の代理として、 and I will whisper in your ear all that you need to hear. そしてあなたの耳に囁くでしょう、あなたが必要とする言葉を。So, my good friends, fear nothing,ですから、友よ、何も怖れることなかれ、 for the good God flies by your side and breathes into your hearts untouchable joy and love.’神はあなたの側にあり、あなたの心臓へ、比類なき喜びと愛を吹きかけるのですから。」



chapter 14より(おれ訳)


おさらい。

アイルランドは聖パトリックの昔から(5世紀?)カソリック教国なのだけど、12世紀の部族国家間の争いで英国の介入を招き、徐々に英国の植民地、被属国化、プロテスタント英国国教会優勢カソリック弾圧(カソリック教徒=多くのアイルランド人の公職追放、土地所有の禁止など)の状態で、19世紀初頭には英国に併合。という憂き目。

この歴史から、また多くのほかの地域のこういった史実から導き出されるのは内乱で勝利しようとして外国を介入を招いてはならぬということ。ですが、いまここに書きたいのはそういうことではなく。

ここは、”神の与える試練は過酷なものだけど、司祭としての信仰生活の修練の途上、これほど過酷な役回りをも果たさねばならないのか”と思いながら読んだ箇所。(もちろんこれはフィクションだけれども。西部戦線は本当の話。)

ここに至るまでもこの従軍司祭さんは遺体や重症者が地を埋め尽くす戦場を徘徊し、体の一部を失ったり死にかけている若者たちの傍に寄り添ってきました。そしてソンムでの緒戦が開き、ウィリイのいる師団も戦場へ投入されようとする夜、月明かりの下、ろうそくの震える灯火にうつしだされながら、司祭は信仰の証の行為として、今から死闘に赴かんとする若者たちを鼓舞しています。腕や足や頭のないアイルランド兵が散らばる場所で。聖者も死者も、その言葉を聞いています。司祭は再度聖母への祈りを口にします。"Ave Maria, gratia plenis..." アヴェマリア、恵みに満ちた方…

  Ave Maria, gratia plena,
Dominus tecum,
benedicta tu in mulieribus,
et benedictus fructus ventris tui Jesus.
Sancta Maria mater Dei,
ora pro nobis peccatoribus,
nunc, et in hora mortis nostrae.
Amen.

  アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、
主はあなたとともにおられます。
あなたは女のうちで祝福され、
ご胎内の御子イエスも祝福されています。
神の母聖マリア、
わたしたち罪びとのために、
今も、死を迎える時も、お祈りください。
アーメン。(wikiより)


司祭の言葉を聞き漏らすまいとする周囲の兵士たち。もちろん、アヴェマリアの文言は子供の頃から聞き覚えています。祖国アイルランドでは無関心でいた人も、皮肉屋のクリスティ・モラン伍長やジョー・ケルティも、みな穏やかな顔。普段は年齢より老け込んで見えるバックレイ司祭でさえも今また穏やかに若々しい。遠方では爆音が鳴り響く夜空の下で。

この辺り、以前にもつぶやきましたが、バリーのこうした戦場の夜の光景の描写は絶品です。美や、感情的な文言など必要とせず、読者の琴線に触れ、心震わせることができます。


でもほとんどの人が辿る運命が目前にさらされているのに?


信仰ってすごいなと思います。精神を麻痺させるのに効果絶大ですね。


He hoped the words would work on the dead and be a balm to them also.










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Pendulums of their hearts [読書日記]




アイルランド好き。これを夜な夜な、ねむねむと読みながら、アイルランドの歴史についてお勉強しています。

The Long Long Wayを読んでいたら、ちゃんとWillieの気持ちを掴みながら読み進めなければと思わされるから。

物語は、職務に忠実なアイルランド警察の父を敬愛してやまず、アイルランドのために志願して従軍した青年がフランスの片田舎の塹壕で化学兵器の脅威にさらされ、休暇で帰還したダブリンではイースター蜂起を目撃し、訳も分からないまま鎮圧側として役割を果たし、またフランスに戻って前線に送られ、毒ガス攻撃を受けたところ。


前線の塹壕でドイツ軍の毒ガス攻撃を受けたことの知らせを聞き、clearing stationsはいったいどう対処するんだ?と呟いた少佐の体が震えていた。その前線で生き残り、報告の使いとしてやってきたWillieと同じ様に。
Neither was trembling because he was afraid, or not just because he was, but because the world and the dealings of the world had set the pendulums of their hearts swinging, had set whatever they ware swaying back and forth.
part II chapter 9


今回はマスクを用意があったものの、毒ガスという目に見えない脅威にさらされ、防毒マスクが機能するかもわからない恐怖(フィットしない兵士もいた)と戦い、急襲するドイツ兵と戦ってきたWillie、血や自らの糞尿で汚れきった軍服のまま、呆然と震えているんです。
恐怖ではなく、ただ単純に恐怖を感じるというだけではなくて、世界と、この世界でやっていくことのために、体の中心に揺れる振り子が置かれ、とにかく体が前後に振れる。
以前は手が、震えていたのはWillieのhands of eighteen summersであったものが、今や未知の作用に振れる振り子を抱えている。



この後、Willieはソンムを体験するのかな…。その後は、どんな戦場に佇むのだろう?
職務に忠実なアイルランド警察の父を誇りに思うWillieの長い道のりとは、それはどの道をたどるものか、ということを考えながら読みたい。と思うので、毎晩眠たくて仕方なくてなかなか読み進まないけれど、英国の支配の過程とアイルランドが独立する過程をお勉強しながら、ゆっくりとThe Long Long Wayを読んでいます。


St Julien, 1915 While the 2nd Battle of Ypres raged in May the 2nd Royal Dublin Fusiliers were nearly wiped out as a result of a German-initiated poison gas attack. There were 666 personnel at the outset and 21 survived.

At the end of 1915 the 16th (Irish) Division entered the trenches on the Western Front under the command of Irish Major-General William Hickie.

Dublin, 1916
As the number of Irish war casualties increased with little prospect of early victory, the Irish Volunteers continued to train and resisted any attempt to disarm them. They organised an Easter Rising in Dublin for 24 April. Roughly 1,200 Volunteers and Irish Citizen Army members took over the city centre. About 5,000 troops in the Dublin area were deployed to suppress the rebellion. An additional 1,000 were immediately sent from Belfast and further thousands were dispatched from Athlone, The Curragh and England. The 4th, 5th and 10th Royal Dublin Fusiliers took part, as did a number of officers and soldiers who were on leave in Dublin at the time. By the end of the week, 16,000 British troops had been deployed to Dublin.
Casualties were 62 rebels killed, 132 British Army and Police dead and 368 wounded. Another 270 civilians were killed and over 2,000 wounded. In all, just 16 police and 22 of the British soldiers killed were Irishmen. Another 16 rebels, the rebel leaders - the seven signatories of the Proclamation of Irish Independence, Padraig Pearse, James Connolly, Éamonn Ceannt, Thomas James Clarke, Seán MacDiarmada, Thomas MacDonagh, and Joseph Mary Plunkett as well as nine others - were executed by the British Army, without trial, after the Rising.

It was generally accepted that the Irish Volunteers fought bravely and honourably. Prime Minister Asquith told the House of Commons that "they fought bravely and did not resort to outrage." The series of executions helped to swing Nationalist support away from the Parliamentary Party and behind Sinn Féin.

Hulluch, 1916[edit]
A German gas attack on 27 April in the Battle of Hulluch caused 385 casualties. The 16th (Irish) Division remained in Loos-en-Gohelle until August. They then moved to The Somme but not before suffering 6,000 casualties, including 1,496 deaths. One major event of this period—the Easter Rising in Dublin, it was concluded by a number of historians, that the Rising had no detrimental impact on Irish troops, even on those with Republican sympathies.

https://en.wikipedia.org/wiki/Ireland_and_World_War_I







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these hands of eighteen summers [読書日記]

先日、これを読みました。




今ちょっと本が手元にないので引用はできないのだけど、内容は簡単だし、わりと同意できて面白かったです。

ちなみに過去にわたしが読んだプルースト関連本でとても面白かったのにこういうのもあります。






チャプスキに戻って著者がおかれた状況について少し。
これは彼が感銘を受け、幾度も読み返した(出版されてわりとすぐの頃らしい)プルーストの『失われた時をもとめて』を、後年、ソ連の捕虜収容所に収監されていた間、捕虜たちの中から余暇(?)に自主的に講義を始めるものが出た中で、チャプスキがテーマとして扱い記憶のみに基づいて他の収容者たちに説いたものの再現。
ユダヤ人たちの絶滅収容所とは違いはあるかもしれないけど、双方ともいつ死ぬのか、明日はないかもしれない、という状況で虚無に耐える日々であったことは同じであったのだろうと思います。そういう中で、なお、自分の中の知性を光としえる人間であるかどうかが、問われているのだ。と思ってわたしも生きたい。文学は、そういうことを教えてくれるものだと思っている。


さて、他に、ただいま継続中なのが、ノストラと、これ。




ノステラのほう、分裂した狂女フアナの独り言の次に面白かったのは、フアナの息子のセニョールの強迫神経症的遺言書。グスマンはセニョールが眠っていた時とは大いに違って借りてきた猫のよう。

多くの疑いを抱くがいい、グスマン、あらゆる物語を語るがいい、そしてもう一度、われわれがかくも多くの可能性の中からたったひとつの解釈しか選択せず、その解釈の上に不滅の教会と、数多の儚い王国を打ち建ててきたのはなぜなのか、それを自問してみるのじゃ。 (289頁)


それから、バリーの小説は第一次世界大戦に従軍したアイルランドの若者の物語です。

西部戦線の塹壕は有名ですよね。
ある夜、ウィリイは塹壕の中で、震える自分の手を見つめる。

these hands of eighteen summers.

summerとは夏であり、年、年齢もさす。漢字文化で春秋や秋が年、時の意味合いを持つのと一緒なのかな、と思います。
つまりウィリイは18歳で、その手は18歳の若者の手で、18歳といえばベストシーズンの太陽に輝いて枝を伸ばす若木のよう。
その手が、故郷のアイルランドから遠く海を隔てたベルギーかフランスのどこかの片田舎の塹壕の夜の中で、震えているのだ、ということを短く教えてくれる印象的な表現、だと思って胸を突かれました。

セバスチャン・バリーの小説は、他に、Days without endしか読んでませんが、そしてどちらも兵士として従軍する場面が多く語られるお話なので当然かもしれないけど、バリーの戦場での夜のシーンがとても良い。この人はこのイメージをどこで得てきたのだろう?と不思議に思ってしまいます。










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the heart asks pleasure first, [読書日記]




ノーアイデア。

で、書き始めます。

夜のみだらな鳥、出てるの知らなかったと愕然としながら。

今読んでいるノステラ。

南アメリカ文学の魔術的リアリスムってこういうこと?と、ボッシュのトリプティクを追い払い、多重構造に目を回しつつ、感心しつつ。

難しい。

例えば「女旅行者の独白」の女王ファナかと思われる人物のモノローグで、いろいろ意味不明な言葉が続くのだけど、例えば、そう、これなんか、

「貴方は、時というものが消滅し、愛の特権的な時間に行き着くまで、歩んできた道を戻っていき、そこで歩みを止めることを心から求めている人間たちに、何の機会も与えようとはなさらないのですか。」(103頁)


大抵の文章というものは、書き出しから半分くらいまで読むと書き終わりを予想でき、筆者が何を言わんとしているのかある程度わかってしまうものだ。なので、むしろ最初から半分まで読んでも何を言いあらわそうとしているのか全く予想できず、終わりまで読まなくちゃわからないんだ!と思わされると、ワクワクするんです。はるかな頂きを見上げてこの山を登るぞ!っていうような気持ち。でもこれは、フエンテスのテラノストラは、最後の句読点まで読んでもわからなくて、何回か読む。繰り返し読んでも、「、、、」と、なる表現が多い。これも、そう。

この一文だけを取り出したらわからないよ、と思われるかもしれないけど、前後を読んでもわからないんですよ。少なくともわたしには、「時というものが消滅し」たあとにある「愛の特権的な時間」という概念が掴めない。そして時が消滅したあとにある時間とは?

時間の観念について、プロプター氏が何か言っていたかも。すなわち、『夏幾度も巡り来て後に』で。

「時間というものは悪なのだと、つまり悪というものに必須たる本質が見せる様相のうちの一つなのだと、わかるのです」(『前掲書』113頁)

「時間の中にあるものは、一切、善にはなり得ないということなんです。時間は、現実の潜在的悪であって、そして渇望が、潜在する悪を現実の悪へと転換するのです。ところが、この世の行為は、潜在的善以上のものにはなり得ないのですよ。さらに、潜在する善は、といえば、それは、時間の外でしか現実化し得ないのです。」(同前117頁)


ーーあるアイデアや観念は一つの作品の中だけで完結させるべきなのかもしれないけれど、それでは哲学は普遍たりえないわけだし、わたしのように鈍い頭脳の本読みは、足りない理解力を、少ない知識を動員して埋め合わせするしかないので、難しい事柄は、他で学んだことを足がかりに解きほぐしてみることにしている。


「潜在的善とは、どのようなものであれ、その牢獄からの脱出に資するもののことなのです。現実のものとなる善というのは、その牢獄の外に、無時間の中に、純粋で私心のない意識状態の中に、あるのです。」(118頁)

「解放というのは、人間として存在していることからの解放、時間と渇望からの解放、神性との融合に入る解放」(119頁)


閑話休題。うーーん、リンクするかと思ったけどヒントなし?

回り道しました。ええと、

「時というものが消滅し」

ここまではわかる。そういう前提は可能だろう。

「愛の特権的な時間に行き着くまで、歩んできた道を戻っていき」?
時が消滅したのに「時間」と名指すことができるものがあるのかどうか、そして、「行き着く」と「歩んできた道を戻っていき」ということはwhenとwhereを要求する行動であるので、時が消滅している仮定の上では、矛盾しているように思える…。(そしてくりかえすが「愛の特権的な時間」というのがどんなものかわからない)


わたしが問いたいのは、日本語として間違っている部分はないにせよ、この文章は論理的に正しいと言えないのではないか、ということです。

このフエンテスの原書はスペイン語で、本書はスペイン語からの邦訳であるので、英訳を見るのは禁じ手であると思うけど、スペイン語読めないので、英語版を見て参考にしてみましょう。

You do not want to provide any opportunity to those of us who require that time disintegrate and then retrace its steps until come to the privileged moment of love and there, only there, stop forever.


あなたは提供したくない、どんな機会も、those of usに。その者たちというのは、時が崩壊し、その後、時がその歩みを引き返す、”愛の特権的な瞬間”まで。そして、そこで、ただそこのみで、時が永遠に止まる、ことを要求する者たち

つまり、

貴方は、時が、崩壊し、その後、愛の特権的な瞬間まで刻みを引き返し、そこで永久に針をとめることを要求する我々の要求に答えたくない。

と、書いてあるのだと思う。disintegrateとretraceとstopの主語はtimeである。違う?

だから、なるほど!そうか、「時というもの」が主語で、以下「消滅し、愛の特権的な時間に行き着くまで、歩んできた道を戻っていき、そこで歩みを止めること」までが時を主語とする一連の行動。それを「心から求めている人間たちに、何の機会も与えようとはなさらないのですか。」というふうに読めば良いのだ。それならば句読点は、こう打つべきではなかろうか。


貴方は、時というものが、消滅し、愛の特権的な時間に行き着くまで歩んできた道を戻っていき、そこで歩みを止めることを、心から求めている人間たちに、何の機会も与えようとはなさらないのですか。」

あと、disintegrate、時は分解とか崩壊するのであって、消滅してはならないと思う(recorded since 1785, dis- +‎ integrate: to undo the integrity of, break into parts.)。momentは時間じゃなくて一瞬という役割をきちんと担わせるべきだ。それとも、英語disintegrateやmomentはスペイン語ではまた別のニュアンスの単語で書かれていて、その謎の単語Xたちは、スペイン語→日本語ではスムーズな解釈なんだろうか。謎である。ただし、こういうふうに矛盾している表現というのは、悪くない。面白いし、それが故意であるならば、語り手の分裂加減を物語る、高度なテクニックの見せ場であると思うから。


女旅行者の独白は延々と続く。

「わたしは前と後との間で、永遠に自分の時間を失ってしまいました。そうしたことを語れるのは、何も記憶していない人間か、何も想像できない人間だけです。最初とその後と申し上げましたが、わたしは前の時間と後の時間、つまり永遠の時間がる唯一の瞬間のことを言っているのです。なぜならば前後の時間というのは、完全な合一、愛の結合の中では永遠だからです。」(104頁)

ここも、何を言いたいのかよくわからない…、でも英語で読むとある一定のニュアンスが浮き出てくる。長くなるのでこの辺でやめておくけど(もう十分長い)、こういうことをつらつら考えるのは楽しい。

結局メイエが言っていたように、スペイン語と英語は違うとはいえ、同じ印欧語族であるのに対し、日本語は全く隔たったシステムを持つ言語であるので、トランスレートにはかなりの困難が伴い、互換性が良いとはいえない。ということを実感しつつ楽しむ読書です。


















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leaving behind a shriveled husk of a man [読書日記]







読んでいます。アントワーヌ・メイエ。1866年生まれ、フランス人の言語学者で、23歳にして、ソシュールの代理で講義を行ったというから驚きます。えーー!

この本は、第一次大戦の途中に執筆され、戦間期に多少修正されたもののようです。

初版はしがきより

現今の事件(第一次世界大戦)がなかったならば、本書は執筆されなかったであろう。(略)
ここで述べようとすることは現在のヨーロッパの言語状況であって、19世紀以来激化している民族の虚栄心や自負が望んでいるような言語状況ではない。


つづいて第二版はしがきには、

言語間の不平等は国民間の不平等以上に大きい。フランス語の知的、社会的価値と、ブルトン語やバスク語の知的、社会的価値に共通の尺度は存在しない。


とあり、民族の言葉、消えさろうとしている土地の言葉を、伝統であり貴重だからと言って保存しようとする立場とは、メイエは逆の意見を持っているというのが最初にはっきりします。

それについてはわたしには反対あるいは賛成といえるほどの考えは今のところなく、ただ読んでいて面白く、楽しい。

特に気を引かれたのは西ヨーロッパに現存する唯一の非印欧語族であるバスク語に関してで、

バスク語はピレネー山脈の西側の北部と西部、すなわちフランスとスペイン(大部分はスペイン領)で使用されており、完全に孤立した言語である。(第3章 ヨーロッパの印欧諸語 89p)

バスク語は、これまで真の文学を生み出したことがなく、また外部に影響を与えたこともない。バスク語は、近隣の諸言語から大量の語彙を借用したが、みずから与えたものはほとんどない。 バスク語は古代の言語事情の証人であり、言語学者にとって興味深い観察対象ではあるが、政治的にも社会的にもほとんど役割を果たしていない。

とばっさり言い切っているところです。
もちろん、19世紀〜20世紀の時代の人には、その時代の見地がある、というものです。
なので、




こういうものがあるけど、じゃあこれは?というような反駁は、したいと思いません。ただ、バスク文学と言われたらこれ思い出すでしょ、というので久しぶりに本棚から取り出して、ページをめくってみました。


一つひとつの喪失は、僕らの内面に残された黒い輪だ。


キルメン・ウリベのこれはダイナミックな時代の流れと美しい言葉が書き綴られた、とても心惹かれる作品です。読んだのは、もうだいぶん昔なので、おぼろげなイメージしか残っていませんが。
そういえばわたし、文学については(というか他の全てについてですが)ちゃんと学んだことがなく聞きかじりのなんとなく、で今まできたので普遍的な言葉で述べることはできませんが、それを言葉による芸術乃至芸術体験の喚起であるもの、と捉えるなら、ウリベのこの小説は確かに一級の文学だったと思います。



訳者あとがきを読むとこうあります。

バスク語による文学作品が初めて出版されたのは16世紀半ばのことで、それ以降、大半の作品は20世紀に入ってから書かれている。

(つまり、メイエがこう書いた後ということですね)

しかも1936年に勃発したスペイン内戦では、多くの作家や知識人たちが命を落としたり亡命を余儀なくされ、その後のフランコ体制下ではバスク語を使うこと自体が困難な時代が続いた。そのなかで、バスク語で書くことをあきらめず、正書法の統一やバスク語教育に取り組み続けた人々のおかげで、バスク語とバスク文学は今日まで生き延びて来た。


感動的。


言語学者の思惑とは反対に、民族の言葉を守り伝えようというのが以降の時代の潮流。
その言語でしか表現できない感覚、土地や民族の記憶に由来する抽象的な概念というのがあるのは確かなんだと思います。それを残すことに普遍的価値はあるのか、また、バベルの塔化ではないのか、というと、これはもう価値観の違いなので、議論で解決できない問題なのではと思います。

とはいえ、バスク文学の珠玉、と言われても、邦訳で読めばどの辺がバスク語由来なのかはさっぱり。バスク語話者の人々の歴史や感情というならそうだけど、それはスペイン語でも書け、日本語で読んでも伝わるのでは?と思いませんか?思ってしまいます。じゃあ、何がそんなに珠玉なのか、というのを理解するためには、バスク語で読むしかなく、世界の大部分の人にはそれができないので、そういうことならメイエが言うように、普遍性がなく、需要の小さな出来事にしか過ぎないのです。

では言語による文学性って何だろう?
文学を生み出すことができる言語とは?

文法と、微妙な感情や抽象概念を伝えるに十分な豊富な語彙と集団合意を持っていて、そしてそれらの話者の中に時代を先見するような詩人を生み出せるような可能性を持つ言語であること?

難しいですね。ちゃんとした大学にいって文学を勉強していれば、もうちょっと深く考察できるのでしょうが。だれか詳しい人がいたらぜひ教えてください。


さて、でもわたしも日本語の本を読み続け、英語の本も少し読み始めた身としては、それぞれの言語について好きだと思えるところがいくつもあります。最近では、今、M/M読書会で読んでいるお話で、

HIs spirit or soul had already gone, leaving behind a shrived husk of a man.

この一文が好きでした。物語としては、子供の頃からの親友を看取った男性のその後のお話。「かれの霊魂はすで去っていて、衰えた人間の形をした殻が残っているだけ」というようなことを言っているのだと思います。
逐語訳にすると、

彼の精神あるいは魂はすでに去っていた、萎んだ人間の殻を後に残して。

と言う風になるのかな?

leaving 以下の修飾節が、平易な前半を個性的に色付けしていてとても良いと思います。そもそも現在分詞や過去分詞で修飾してくるのが好きですね。わくわくします。

それから、もう何年も前に祖父が死んだとき、「もう親爺の魂はここにおらん」と言った叔父のことを思い出します。

生き物が死に、事物が絶えることは必然のこととわたしは考えるほうです。魂は消滅し、輪廻転成しないのが理想。祖父も祖母も、父も母も、わたし自身も無に帰すのです。20世紀の西洋人はこれを虚無主義と捉えたようですが、むしろ、生きる意味やどう生きるかはそこから派生するように思います。あ、でも無から有は生み出せないから、全体に還ると考えたほうが良いのかな?

言語の話に戻ると、印欧語族とは、有史以前に存在していたと結論づけられる、ケルト語派、ロマンス語派(新ラテン語派)、ゲルマン、アルバニア、バルト、スラヴ、ギリシア、アルメニア、インド=イラン語派共通の祖先となる言葉で、文字や文章としては残っておらず、各言語を分析することによって存在を確かめることができ、広範囲に分布し、文化を形成し、変化して、現在のヨーロッパの土台となった言語だそうです。形骸は残っていなくても、今ある語の断片から存在を推し量ることができる。形あるものはいつか滅びるけれど、在ったものを完全に無くすことはできない、のかな。と考えさせられます。

言語学、すばらしい。























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More in heaven and earth [読書日記]



読みました。

みんな大好きジェフリー・フォードの短編です。

Three friends go looking for treasure and find horror in Jeffrey Ford's The Twilight Pariah.

All Maggie, Russell, and Henry wanted out of their last college vacation was to get drunk and play archaeologist in an old house in the woods outside of town.

大学最後のヴァケーションでマギー、ラッセル、ヘンリーがやりたかったのは、酔っ払い、町外れの森の中の古い家で考古学者ごっこ、だったのだけど。

When they excavate the mansion's outhouse they find way more than they bargained for: a sealed bottle filled with a red liquid, along with the bizarre skeleton of a horned child

赤い液体が入った密封ボトル、そして角の生やした醜い子供の骨ーー、彼らが予想もしないものを掘り当てたとき…


という、ありがちなサマーヴァケーション・ホラーなんですけど、人物と細部がジェフリー・フォード流なので、とても楽しく読みました。

さてタイトルは、マギーの大学の教授ジョー・メドレイが3度言うセリフ。もとはハムレットの台詞の引用のようですね。

There are more things in heaven and earth, Horatio,
Than are dreamt of in your philosophy.
- Hamlet (1.5.167-8), Hamlet to Horatio

天と地の間には、ホレイシオよ、お前の哲理よりももっと色んなことが創造されているものなのだ


この教授というのが、マギーによると

"He's old, he kind of smells like a vase of dead flowers, he wears suspenders, and he doesn't say much unless he's lecturing."
"Can't wait," said Russel.

一人称の主人公ヘンリーによると

There was an aroma about him, like farts and chicken soup.

腐った花の匂い…おなら…チキンスープ…


会うのが楽しみと言ったラッセルにも頷けるというものです。いろんな意味で。

ところで、今読んでいる別の本では(盲目の男性と男娼のお話なのですが)、主人公の知覚情報が視覚にたよらないもののため、嗅覚や音声による判断がよく出てきます。しかも匂いに関しては、人間臭い猥雑な匂い、汗や排泄物、古い油の匂いなど、あまり良い匂いとは思えない匂いが多く、頭の中でイメージしながら読むとちょっと疲れます。

目が見える者の意識からすると、嗅覚や音声は視覚に結びついていて、その為に嗅覚や音声が物体や現象を呼び覚ますのだと思えますが、主人公ハンターは、フランクの電話の声を聞き、

The voice fell over him like a spell,

魔法に掛かったようにいくつかの匂いに包まれます。

like a sachet of rosemary, citrus, and the tangy foreign texture of myrrh.

ローズマリー、柑橘類のサシェ、それから異国風のミルラの匂い

このことはわたしには少し意外で想像が難しく、音や匂いは形を持っていないけれども、単に物体の属性というだけでなく、別の局面でライトアップされる固有の存在なのかもと考えさせられ、面白く感じられました。
先ほどの文句を思い出してみれば、創造主は天地創造の際に音と匂いもちゃんと作ってあったんだと思えます。(というか、天と地と出てきたので、わたしが勝手にthe Creation、天地創造にイメージを寄り合わせて訳しただけなのですけど)

ところで創造主というと、もう1冊、



これも今読んでいる本ですが、この中でレーヴィは、

創造主は腐敗しないものを好まない。

と書いていて、面白いです。

また、レーヴィはこうも書いています。

だがもっと重要なことがある。排泄物から化粧品を作ること、あるいは、「糞から金を作る」ことは、わたしを驚かせるどころか、楽しませ、心を暖かくしたのだ。それは原点に戻ることと同じだった。錬金術師が尿から燐を取り出した頃と同じだった。これは未体験の愉快な冒険で、高潔でもあった。なぜなら、再興させ、回復させ、高貴なものに高めるからだ。自然はこうしたものである。森の下生えの腐敗から美しいしだ類が育ち、堆肥から牧草が育つ。ラテン語の「堆肥(レタメン)」とは、元気づけること、という意味ではなかっただろうか?(窒素 277ページ)



先ほどのハンターさんには、目が見える人にとっては眉をひそめるような野卑な匂いであっても、知覚情報源の一つとして抵抗なく受け入れられるようです。でもそもそも”汚いもの”という感覚が、相対的でしかも偏りに近く、”自然とはこうしたもの”に反しているのでしょう。

in heaven and earth

目に見えて、常識として知っていること以上に、世の中にはもっとたくさんのものがあるのです。

と、臭くて野暮ったくて得体の知れない大学教授ジョー・メドレイも言っているのです。
















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2017年の心に残る読書3つくらい選 [読書日記]

今年は長くなりそう。
うまく書けるかしら?
気楽に行こう。



それから父さんは死んだ。で、おれは飢え、それから、あの船。それから…、
それから、アメリカ。そうして、ジョン・コール。

まず最初に思い出すのは、セバスチャン・バリー描くアイルランド人の物語です。

"Days Without End"

まずじゃがいも飢饉があって。
移民船に乗り込んだ孤児トーマス。
(移民船はアフリカ人の奴隷船を彷彿とさせる劣悪なもので、子供がひとり、よく生きてたどり着けたな、というようなもの。)
そして、アメリカ。
そして、運命のジョン・コール。

この本は、孤児で役者で兵士で農夫のトーマスの一人称という設定で、言い回しも非常にたどたどしいものであるため、読みにくい英語でしたが、さすがさすがの豊かな視点、ポエジーを感じさせる感性がいたるところに湧いて出ていて、ため息をついたり、感動しながら読んだのでした。

特に、まだ若い彼らの野営地でのひとこま、

Two soldiers walking under the bright nails of the stars.

というのの美しいことに感動し、イメージを残して読んでいたら、もっとずっと後、インディアンの養女を連れての夜を徹しての旅の途上で、

He pulls his hatbrim down, under the moon. With the dark trees around. And the owls. Don't mean nothing. Be hard to be in the world without him. I'm thinking that. That part of the country you see two or three shooting stars a minute. Must be time of year for shooting stars. Looking for each other, like everything is.
(chapter 17のラスト)

とあり、

ジョン・コールは月明かりの下、帽子のヘリを目深に下ろす。暗い森の中。梟が鳴く。なんでもない。彼がいなければ堪え難いだろう。おれはそう考える。そこいらでは1分に二つや三つの流れ星が見える。たぶん当たり年なんだろう。流れ星はお互いを探している。他のいろんなものと同じに。

という感じかな。
ふーん…。流れ星の当たり年というのはある。
わたしも以前、見たことがある。1分に、といわず、30秒に5つも6つも流れていた。
でも流れ星はお互いを探しているかしら?孤独に飛んで消えていってしまうものではないの?
他のすべてのものと同じに。

だからここは、筆者の勇み足だと思いました。

でもやがて、22章で、

春が来て、森から、鳩の鳴き声する。すると、ジョン・コールが保護してきてトーマスに贈った嘆き鳩のGeneral Leeが頭を傾げ、くーくーくーりこ、と鳴く。
彼女の羽が癒えたら、放してやるつもりだ。くーくーくーりこ。
Looking each other, like the shooting stars. Like the Tennessee owls. like every damn thing.

ここを読んだとき、はっと胸を突かれたのでした。

流れ星がお互いを探しているものの表象なのじゃなかった。
彼らは流れ星に自分たちを見たんだ。ジョン・コールとトーマスがお互いに結び付けられている、そんなことは当たり前なんだという地平の上でトーマスが見るもの、それらはみな”お互い”を探す相手がいるものなのだと彼には思える。自分たちと同じように。

そう考えさせられたのでした。
ちなみに、このお話の大半は殺伐とした情景です。飢え、凍え、殺しあっています。そういう時代だったんだ、と思って読むしかない出来事の中で、ジョン・コールとトーマスの硬質な愛が冬の冷たい夜空に輝く星のように美しいのです。




次に、といって思い出すのは、やっぱりこれ、




『夏幾度も巡り来て後に』

オルダス・ハクスレーは、"Singe Man"に引用されてまずタイトルに興味が湧き、読んでみたいと思って手に取りました。

After Many a Summer

テニソンの詩「ティソノス」の一部分に由来するタイトル、

And after many a summer dies the swan.

幾年月の後には、長寿の白鳥さえも死に果てるのです。
(対訳テニスン詩集 西前美巳編)

です。

暁の女神に愛された青年ティソノスが女神に願ったのは不死。でも、よくあるように、言わずとも不老とセットにはしてくれなかった。ティソノスは死ぬほど長い時間を老いて生きます。不老不死の女神は別として、長寿とされる白鳥でさえ、長い年月のうちに死ぬのに。ティソノスは死ねない。美しさを失い、老衰し、憔悴した彼は、今ではこう願います。

To hear me? Let me go: take back thy gift:
Why should a man desire in any way
To vary from the kindly race of man,

このタイトルとあのラスト、シニカルで難解、多層の構成の末に、良識を、よりよく生きようという個々を、あざ笑うようなあのラストが、印象的でたいへん面白かったです。
この小説を70年代(だっけ?)アメリカの大学の講義で使ったシングルマンのジョージの胸中も合わせて考えるとより楽しかったです。



そして、3つめ。少し前までは『奴隷船の歴史』を選んでいました。とても面白く、参考になったから。でも昨日、



『アウシュヴィッツは終わらない』

を読了し、これだと思いました。

事象の非道さよりも、ここに書かれてある魂の、なんと言おうか、やっぱり美しい、と、言えることに驚いたから。
ほんとうにそうだ、と心から賛同するので何度も引き合いに出しますが、『台湾海峡1949』の龍先生が、あとがきかどこかに書いてらしたような、戦禍などで不遇に亡くなった人々へ灯すろうそく、あるいは祈りとして文学があるとき、それはどんなにひどい出来事を書いていたとしても、やっぱりどこかとても美しいものが内包されていて、読む人の心を震わせるものだと思っています。だから、そうやって心が震えるとき、そのろうそくの火や祈りは、亡くなった方々の魂の慰めになっているのだと思えます。

この本では、特に、プリーモがダンテの神曲の中の「オデュッセウスの歌」を暗唱する場面が圧巻でした(131頁〜 オデュッセウスの歌)。


さあ、ピコロ、注意してくれ、耳を澄まし、頭を働かせてくれ、きみに分かってほしいんだ。

きみたちは自分の生まれを思え。
けだものののごとく生きるのではなく、
徳と知を求めるため、生をうけたのだ。

私もこれをはじめて聞いたような気がした。ラッパの響き、神の声のようだった。一瞬、自分がだれか、どこにいるのか、忘れてしまった。


ーーここまで読んでいる人にはわかるのですが、この感動を味わうためには、収容所がどうであったかを落とし込む必要があります。


ガス室行きの回教徒(衰弱し、力を失った収容者への隠語)はみな同じ歴史を持っている。いや、もっと正確に言えば、歴史がないのだ。川が海に注ぐように、彼らは坂を下まで自然にころげ落ちる。収容所に入って来ると、生まれつき無能なためか、運が悪かったか、あるいは何かつまらない事故のためか、彼らは適応できる前に打ち負かされてしまう。彼らは即座に叩きのめされてしまうので、ドイツ語を学んだり、規則や禁制の地獄のようなもつれあいに糸口を見つけたりすることもできないうちに、すでに体は崩壊し、何をもってしても選別(ガス室行きを意味する隠語)や衰弱死から救い出せなくなっている。彼らの生は短いが、その数は限りない。彼らこそが溺れたもの、回教徒であり、収容所の中核だ。名もない、非人間のかたまりで、次々に更新されるが、中身はいつも同じで、ただ黙々と行進し、働く。心の中の聖なる閃きはもう消えていて、本当に苦しむには心がからっぽすぎる。(107頁 溺れるものと助かるもの)


話は逸れますが、ここは以前のわたしの日記で引用した、Days without endの以下の箇所を思い出しました:

Souls ain’t like a great river and then when death comes the souls pouring over the waterfall and into the bottom land below. Souls ain’t like that but this war is asking for them to be. Do we got so many souls to be given? How can that be?

魂は、川のように流れ、死に際しては滝に落ち、地下の国に注がれいくようなもの、じゃない。人は、そういうものではないのに、今度の戦いは人にそうであるように強いている。これほどの人数の人々を俺たちはその川に投げ捨てたのか。どうやってそんなことが?


これらの、人の生き死にと川の象徴は、具体的に元になる詩や文章があるのでしょうか(ステュクス的な?)?
それとも人類に普遍的なイメージなのでしょうか。
つまり、行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶ泡沫は、かつ消えかつ結びて久しくとどまりたるためしなし。 世の中にある人とすみかと、またかくのごとし、というような。ここはちょっと興味深かったところです。


閑話休題、
今でこそ不屈と思われる自由という概念は、当時、一握りのエリートしか持っておらず、そのエリートは最初にナチスに攻撃され、残った人たちは反抗する、反撃する、という発想自体を持っていなかった、というようなことをレーヴィが本の後ろのほうで書いていました。
この歯の立たぬ、暗き流れに流されていくしかない収容所での日々の中で、
感覚を麻痺させ、苦しみを苦しみと感じないよう、希望を抱かないようにして生きる蒙の中で、
この時、この詩を暗唱し、フランス語とドイツ語は流暢に話せても、イタリア語はあまりわからない24歳のアルザス出身の学生ジャンに伝えたいと、
灰の中から人間の理性が蘇るひとときを、このわずかな理知の閃光を、
やはり言葉なのだ、詩なのだ、と感動せずに読み流せる”書物の民”がいるでしょうか。


味気ない訳と、おざなりで平凡な解釈にもかかわらず、彼はおそらく言いたいことを汲み取ったのだ。自分に関係があることを、苦しむ人間の全てに関係があることを、特に私たちにはそうなのを、感じ取ったのだ。肩にスープのかじ棒をのせながら、こうしたことを話し合っている、いまの私たち二人に関係があることを。






来年もたくさん本が読めますように。





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no matter who came and went [読書日記]


毎年、秋から年末にかけては忙しくて、日記を書く意識から遠ざかっていました。



これを読み終え、



こちらと



こちらは継続中で、



は昨日読了。


House of names、名前の家。

うーーん、わたし、キアラン・カーソンから心の中にアイルランドのイメージを発する楔を打ち付けられていて、アイルランドに無意識に反応するようになっているので、Days without endも主人公がアイルランド移民でアメリカの市民戦争を戦ったと書いてあったので読むことにしたのでしたが、このコルム・トービンは、ネットでたまたま見つけて、なんとなく惹かれて読むことにしたもの。まさかこの人もアイルランドの作家さんとは知りませんでした。運命を感じます。


この物語は有名なギリシア悲劇、オレステイアなどの物語をコルム・トービンが描きなおしたもので、トロイア戦争に向かうアガメムノーンが娘イピゲネイアを神々への供物とするため、妻クリュタイムネストラを娘の婚姻と称して露営地まで連れてこさせるところから始まります。

かの英雄アキレスと妙齢の愛娘の結婚と聞き、大急ぎで婚姻の衣装と整え、娘を連れて有頂天でキャンプへやってくるクリュタイムネストラ。
でもキャンプへついて知らされたのは、夫が娘を生贄にしようとしているという事実。
騙されたと知ったクリュタイムネストラはアキレスに頼んで逃げようとしますが叶わず。
イピゲネイアに母から娘へ代々伝わる呪いの言葉を教えて彼女らをないがしろにする男たちに報復しようとしますが、兵士に猿轡をかまされ、イピゲネイアも彼女自身も詠唱を阻止されてしまいます。
そして滞りなくイピゲネイアは喉をかき切られて死に、クリュタイムネストラは立つことも横になることもできない石穴に3日間放り込まれ、その飢餓と暗闇の中、汚物と手足のしびれの間で彼女は自分を生まれ変わらせるのです。

この話は、クリュタイムネストラと、彼女のもう一人の娘エレクトラの一人称、そして息子オレステスの3人称で物語られる章で構成されているので、最初、わたしは彼女たちの物語なのかな、と思って読んでいきました。
クリュタイムネストラがアガメムノンに復讐を果たした時点でわたしも溜飲を下げたのだけど、物語はまだ中盤。これから父を殺されたエレクトラとオレステスの復讐譚に移行するかと思うと、読む気が失せる…、と思いながら、しぶしぶ読み進めていった結果、あれ?何か違う、と気が付いたのがラストを飾るオレステスの章でした。

確かに、エレクトラは自分を顧みない母親に対して復讐心を燃やしている。エレクトラコンプレックスとは「エディプスコンプレックスの女児の場合を言い、女児が父親に対して強い独占欲的な愛情を抱き、母親に対して強い対抗意識を燃やす状態を指す」とウィキにあるけど、トービンは偉大な父親への独占的な愛情なる面をクールに薄めて、若い雌ライオンが持つ縄張りへの権力志向を切り出したように思います(母親そっくりな娘として)。でもそれすらも周辺的な扱い。なんだろう、この明確に語られないものが醸し出す存在感。読了後じわじわくる感じ。

Days without endの時も感じた、後に引く読書感。

英語で読むから読み取れない部分があるのかな、というのは否定しませんが、わたしは心理描写が親切すぎたり、蘊蓄を除き、くどくどと説明的で平明な文章よりも暗喩に次ぐ暗喩、遠回し、言い換え、書き控えの文章が好きなので、読んでいる途中はそれほど気にしていませんでしたが、読み終えた後、明確に読み取りきれなかったことについて考え込んしまい、これは、面白かった読書、と思わされたのでした。

オレステスがどう描かれたのかはここに書かないことにしましょう。この本を読む人への秘密です。ラストの強烈な幕引きがどんなメッセージなのか、わたしはまだ明確な意見を持てません。印象に残して、覚えておいて、いつか知りたいものです。

屍の山が築かれた長い夜が明け、オレステスと彼のアイドル、レアンダーは宮殿の入り口で曙光を迎えます。

完全な、圧倒的な夜明け。昔から変わらぬ、いつの世もそうであって、人の生き死にに関わりなく、人の営みに関係なく訪れる夜明け。

いつの日か、

In time, what had happened would haunt no one and belong to no one, once they themselves had passed on into the darkness and into the abiding shadows.












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Souls ain't like that [読書日記]

Souls ain’t like a great river and then when death comes the souls pouring over the waterfall and into the bottom land below. Souls ain’t like that but this war is asking for them to be. Do we got so many souls to be given? How can that be?
"Days without end" Sebastian Barry  chapter13

魂は、川のように流れ、死に際しては滝に落ち、地下の国に注がれいくようなもの、じゃない。人は、そういうものではないのに、今度の戦いは人にそうであるように強いている。これほどの人数の人々を俺たちはその川に投げ捨てたのか。どうやってそんなことが?


終わりなき日々。


ネイティブ・アメリカンとの戦いでは率いられるまま敵と戦い、闇と混乱の中とはいえ女子供も殺してきたトーマスですが、1861年に始まる南北戦争では、自分と同じような外見をし、同じ文化を持つ相手を敵とし、しかも威力の増した火力で殺しあうことに、多少の疑問を感じてしまいます。

It is not like running at Indians who are not your kind but it is running at a mirror of yourself. Those Johnny Rebs are Irish, English, and all the rest.


と、いうわけです。

戦い終えた戦場には、北軍側の新兵も太鼓叩きの少年も、無残な姿となり転がっています。彼らは仲間の遺体を埋葬する、それが死者への敬意を表するものだから。でもネイティブはそんなことしない。やがて狼が来て死肉を食べるから。埋めたとしても掘り起こして。彼らは埋葬し、神に祈る。でもキリストはこの国のことなど知りはしないだろう。なんと愚かな、我々は。


この辺りの筆致にぐいぐい惹きつけられて、夢中で読みました。それと同時に、疑問点も。

まず、トーマスよ。お祖母さんだかがネイティブのジョン・コールをこの世で一番のハンサムだと思っていて、スー族だか何かの部族の孤児を養女にし、この世で一番可愛い娘だと思っているのに、その同じ目でインディアンを同じ人間だとは見ていない?

この、まっすぐでない線引き。でもこういうところに気づくと、むしろそれがとても人間らしいことだと感じませんか。人は、往々にして漠然とした敵を憎み、目の前の存在には情をかけてしまうもの。例えそれが敵に属するものであっても。


それから戦争が人を変えるというところも考えさせられます。若いトーマスの以前の戦いでは入植者の生活を守るために、異種族の敵を排除するという大義があって。今度は反逆者と戦うという大義がある。けれども、今度の敵は自分と同じような外見の、同じようなルーツの人間達で、という。でも、そもそもトーマスはアイルランドの飢饉の時に家族を失い、ゴミ屑同然の扱いで新大陸にやってきたはず。貧しく飢えたアイルランド難民は、同じ人間として扱われなかった。こういうトーマス1人の背景を考えても、とても複雑です。
弾が当たれば死ぬだけの一兵卒。殺し殺され、生き残る度、今度の戦争は、と思う度に、生きる事によって変えられていっている自分を忘れて嘆いているものなのかもしれません。

人の命はそのようなものではなかったはずなのに。



それでも、後日談の形を取るトーマスの物語は

Young, and there would never be a change for that. 

Days without endで、それを思うとどんな惨めな場面も、どんな幸福な場面も、どこか胸が痛むものがあります。

(まだ50%しか読んでませんが)











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for that matter [読書日記]

カレン・アームストロングさん、ずっと以前に興味を持ち、著書を読んでみたいな、と思っていて、良いご縁があり、今回のチャレンジになったわけですが、やっぱり、そのときは面白いなと思って読んでいても、英語を頭の中で言語化していないので、本を閉じると、こんな事が書いてあったよ!と語れるほどの残るものはなく、曖昧な記憶しか残っていません。
わたしの頭では、そんなものかな。

でも、毎日、あー、面白かった!と思って読書を終えます。

今は第2章の"One God"を読み進めています。申命記やなんやらの叙述をもとに、プロフェットたちとユダヤ教の神の変化を読み解いているようです。

わたしはユダヤ教の贖いのレトリックがとても好きなので、というと角が立ちますが、本当にすごく興味があるので、書いてある事にワクワクしっぱなし。何か新しいヒントがあるんじゃないかと期待して。
こことか。

At a time when the cult of Yahweh might reasonably have been expected to perish, he became the means that enabled people to find hope in impossible circumstances.
Yahweh, therefore, had become the one and only God.
 A History of God :One God: 61p

ヤハウェの教団が如何にも滅ぶかも、という時に、彼(ヤハウェ)は、不可能と思われる状況の中で民に希望を見出させる原動力となった。
ヤハウェはそれ故に唯一無二の神となったのだった。


ここはアンダーラインを引くべきところのはず!と思って読んだのだけど、すらっと読めなかったし、日本語にしてみないと、もう一つよくわからなかった。わたしの上の訳は間違っているかもしれないけれど、意味は掴めると思う。この逆説、逆張りを、少数のエリートだけではなくある一定の人々を取り込んで信じさせ、存続させることが出来たということが、いくつもの逆境や困難にあってもユダヤ教とユダヤの民が現代まで生き残ってきた理由なのだと思うのです。

さて、章タイトルにもなっているように、ここでは啓典の民たちの神の一神教化、唯一の神となる成り立ちを説いていて、それまではマルドゥックとかバアルとか、いろんな神様がいた中で、ヤハウェの教団が教理的に先鋭化し、孤立してゆくところを辿っています。the one and only とことさら称揚しないといけないということは、他にたくさんライバルがいて、もともと唯一無二の、というわけではなかった、ということがよくわかる、楽しい部分ですよね。

ところで、one god と言われると、あれを思い出してしまいます。映画『カストラート』。
わたしはヘンデルの「わたしを泣かせて下さい」が好きなのでよく映画の歌唱シーンをYouTubeで視聴していたものですが、舞台の上でファルネッリが歌い終わった後、感動して沸き返った聴衆が、

One God, One Falinelli!

と声を揃えて賞賛をおくるのです。

神は1人、ファリネッリも1人!

とね。
この台詞の心情が日本人のわたしにはよくわからなかったのですが、今なら何か想像出来るような気がします。

The only oneであるという意味が。

ついでに言えば、この日記のタイトルは、今朝読んだDays without endから。

Thank God John Cole was my first friend in America and so in the army too and the last friend for that matter.

神よ、ジョン・コールはアメリカでできた初めての友達で、軍隊ででもそうで、最後の友達だった、さらに言えば


読書は楽しい。








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